“8月15日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1914年 33年間の難工事の末、太平洋と大西洋を結ぶ総延長80kmのパナマ運河か開通した。
スエズ運河を拓いたレセップスがフランスの主導でパナマ地峡に両方の海面と同じ深さに掘り進む「海面式運河」の建設を計画して1880年1月1日に工事が開始された。しかし黄熱病やマラリヤの蔓延に加え工事の技術的困難と資金不足で難航、89年に計画が放棄された。代わりに乗り出したのが時の大統領セオドア・ルーズベルトのアメリカ合衆国。こんどは海抜26mに巨大な人造湖「ガトゥン湖」を造り、閘門で水位を調整しながら通過するアイデアで工事が再開された。掘った土砂は貨車に積むと地球を3周半する量だった。
南米最南端のマゼラン海峡やドレーク海峡を回らずにアメリカの西海岸と東海岸を結ぶ海路が開けたことで計り知れない経済効果をもたらしたことは間違いない。パナマ運河についてよく使われる「大地は分かたれ、世界は繋がれる」の名台詞はルーズベルト大統領のかと思ったら完成直前に亡くなっていたので残念ながら違った。<海は分かたれ、陸が現れり>は旧約聖書『出エジプト記』の紅海を渡るシーンだけど。
*1901=明治34年 与謝野晶子の処女詩集『みだれ髪』が刊行された。
新進洋画家の藤島武二の手になる表紙はそれまでなかったモダンな体裁だった。
「表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」と紹介されている。上部中央に描かれたハートのなかに巻毛の女の横顔がはめ込まれ、ハートを左斜め上から右下に一本の矢が貫き矢の先端からは血がしたたる感じで「ミだ礼髪」の赤い文字。ピンクと濃緑と赤の三色刷りで縦19.4cm、横8.4cmの変形判、奥付には「著作者・鳳晶子、定価金35銭」とある。鳳(ほう)は晶子の旧姓である。
晶子はかって鉄幹との恋を争った山川登美子にこの詩集を贈呈した。それを手にした登美子は、親が決めた相手との結婚のため<身を引いた>はずだったが、自分には生涯歌集など出すことは考えられない境遇への憐れさといくばくか残る嫉妬心で思わず落涙した。
*1942=昭和17年 瀧澤敬一の『フランス通信』は「セーヌの川浚(ざら)ひ」を紹介する。
八月十五日、「聖母昇天祭」の祭日に<セーヌの川浚ひ>があった。外国のラジオが放送したくらい故、珍しいことなのであろう。何でも一世紀に二回位しか行はれないものとか。
当日は<御止め川>となって、水底から出る宝物は皆、御上のものになる。祭日だと云ふのに遠足も旅行も出来ぬパリジャンは、汗を流して見物に出かけた。上流でセーヌ川をせきとめ、一時間に十センチの割合で、一メートルも水位を下げた。何しろ百日来の旱(ひでり)で水は涸れきって居たから、こんな仕事には都合が好かったらしい。
こういう書き出しを見つけると「何が見つかるのだろうか」と引き込まれてしまう。著者はさらに「シャラトンからシュレーヌまで巴里市を貫流する間には、金銀の大槌小槌が沈んでいるかと思われ見物人の興味をそそった」と紹介する。で、結果はどうだったかというと「浚渫人夫の引き上げたのはまず塵埃泥土ばかり、メタンガスの御馳走だけに失望したと云ふ」。なーんだ、だがそれで終わらないのが面白いところ。錆びたピストル、古鉄砲、銃剣、薬莢、鳥籠(西洋のは針金)が取り出され、白鳥島近くでは、1937年大博覧会に使った鉄鎖の一部、オートイユでは自動車と自転車の骸骨があった。一番注意したのはこの春爆撃された工業地帯で、水底から不発弾が3個見つかった。千年の都だが「波の底にもあり」と云ふわけには行かぬ。御伽話の様には問屋が卸さない。
と細かくレポートし、『平家物語』の一節を引いて締めくくっている。
*1689=元禄2年 芭蕉の『奥の細道』の旅も終りに近づいた。
前日の夕暮に敦賀津の宿に着いた。その夜は月が晴れてとても美しかったので宿の主人に「あしたの十五夜もこんなでしょうか」と尋ねたら「変りやすいのがこの北陸路の常ですからわかりません」と。勧められて気比明神に夜参りしたがこの神社は仲哀天皇の御廟で社頭は神々しく、松の木の間を漏れてさす月の光で神前の白砂は一面霜を置いたようだ。
「昔、遊行二世の上人(一遍上人の弟子の他阿上人)が大願を思い立たれ、みずから草を刈り土や石をかついで運び水たまりを乾かされたのです。以来参詣の行き来の心配がなくなりました。それが今も残っていて代々の遊行上人が神前に真砂を運ばれる行事を<遊行の砂持>と申します」と宿の主人が語ったので2首を詠んだ。
月清し遊行のもてる砂の上
名月や北国日和定なき
名月を期待していた十五日は宿の主人の言葉どおり雨が降った。せっかくの「十五夜」なのに雨がそれを隠したという悔しい思いと北国の天気に寄せて人の世の定めなさを込めた。