“8月18日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1945=昭和20年 敗戦から3日目の都内主要紙にひときわ目立つ広告が掲載された。
転換工場並びに企業家に急告!平和産業の転換は勿論、其の出来上がり製品は当方自発の“適正価格”で大量引き受けに応ず。希望者は見本及び工場原価見積書を持参至急来談あれ
淀橋区角筈一の八五四(瓜生邸跡)新宿マーケット 関東尾津組
関東尾津組は戦前から新宿に根を下ろし露天商を統率してきたいわゆる「テキヤ」だった。親分の尾津喜之助は軍需産業の下請け業者は敗戦で納入先を失い半製品をかかえて途方にくれていることに着眼した。露店は本来あらゆる品物を扱う。ハンパものはハンパものとして売る。品物さえあれば、いつどこでも開店できるのが青天井(露天)の強みである。広告が出た当日から尾津組事務所には都内近県から中小企業主が続々と詰めかけた。親分は業者たちに現在の設備や半製品を生かし、たとえば軍刀の生産者には包丁やナイフ、ナタを、鉄カブトの業者には鍋を作ることを勧めた。
こうして確保した商品をもとに、20日には「光は新宿より」のキャッチ・フレーズでよしず張りの通称<尾津マーケット(新宿マーケット)>が開店した。並べた商品は日用雑貨で、値段はご飯茶わん=1円20銭、素焼七輪=4円30銭、下駄=2円80銭、フライ鍋=15円、醤油樽=9円、手桶=9円50銭、ベークライト製食器・皿・汁椀三つ組=8円だった。
マーケットの出現を毎日新聞は「闇吹っ飛ぶ声、新宿に明るい商店街」、朝日新聞は「正札つき露天商組合」と伝えた。
9月に入ると「光は新宿より」のスローガンの上に100燭光の白熱電灯が取り付けられ隣の大久保駅からもはっきり見えた。
*1933=昭和8年 甲子園の中等優勝野球大会で延長25回という最長の試合が行われた。
第19回大会の準決勝第2試合、明石中学(兵庫)対中京商業学校(愛知)の試合で0―0のまま延長25回を迎えた。25回表、明石は0点、その裏、中京は無死満塁からセカンドゴロの本塁悪送球でサヨナラ勝ちした。試合時間は4時間55分、投球数は中京商の吉田が336球、明石の中田が247球をそれぞれ一人で投げ抜いた。これもすごい!当時のスコアボードは16回までしかなく17回以降は球場職員が「0」の表示のスコアボードを釘で打ちつけながら継ぎ足していった。
実況中継したNHKの高野国本アナウンサーもひとりでしゃべり続けた。他のアナウンサーが交代を申し入れたが「選手ががんばっているのにアナウンサーがやめるわけにはいけない」と断った。試合終了の瞬間、すっかり声はかすれていたが「あっ、セーフ、ホームイン、ホームイン。ゲームセット、ゲームセット。6時3・・4分、遂に延長25回、1アルファー対0、歴史的なこの大試合、遂に中京勝ったのでございます。1アルファー対0、1アルファー対0。全選手も、アンパイアも全観衆もヘトヘトです」と絶叫した。
翌日、中京商は平安中(京都)と決勝戦に臨み吉田が完投勝利し、前人未到の3連覇を飾った。25回の延長記録は高校野球となった現在も破られていない。また試合の延長は選手の体調を考慮して1958=昭和33年の第40回大会から「18回引き分け再試合」になり、現在はさらに15回に短縮されているため延長記録も<不滅の記録>となっている。
*1930=昭和5年 作家・谷崎潤一郎は神戸・岡本の自邸から各新聞社にあてて挨拶状を出す。
内容は妻の千代と離婚し、千代は谷崎の年来の友人である作家・佐藤春夫と再婚することに合意したというものだった。しかも3人の連名で
拝啓 炎暑の候、尊堂益々御清栄奉慶賀候、陳者我等三人この度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致すことに相成潤一郎娘鮎子は母と同居可致、素より双方交際の儀は従前の通りにつき御諒承の上一層の御厚誼を賜度いづれ相当仲人を立て御披露に可及候へ共不取敢以寸楮(すんちょ=少しばかり)御通知申上候 敬具
谷崎潤一郎/千代/佐藤春夫
という風変わりなというか、ふるった文面だった。凝り性の谷崎はこの印刷のためにわざわざ外国製の石版印刷機を購入している。さすがに印刷は人に任せたが文案と版下は自分で書いた。
翌日の新聞には朝日新聞が「潤一郎氏妻を離別して友人春夫氏に与ふ」と比較的好意的に報じたが、他紙は「細君譲渡事件」などとセンセーショナルに報じた。読売新聞には大宅壮一が「潤一郎、春夫両氏の離再婚批判、江戸末期的な古さと遊戯性」と評した。東京日日新聞には萩原朔太郎が「佐藤と千代は同棲したことがある」とバラし、これには佐藤が憤慨した。谷崎も佐藤も著名すぎる作家だったから当然のことながら大騒ぎになり、谷崎の娘の鮎子は聖心女子学院を退学させられた。