“9月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1945=昭和20年 原子爆弾の惨禍を受けた広島を連合国の従軍記者団が初めて取材した。
「読売報知」はこの日の朝刊でつい先日まで<敵国>だった従軍記者団の報道ぶりとして広島の原爆被害の惨状を間接的に報道した。原爆被害の取材のために戦闘服姿で3日に広島入りした記者団の面々は駅に降り立ったところで目に入った惨状に息を飲んだ。焼け跡や崩れたビルのはるか先に瀬戸内海やそこに浮かぶ島まで見えた。ここに30万人以上の人々が暮らしていた都市があったとは想像もできなかった。案内された病院では病室に横たわる比較的けがの軽い被爆者の話を聞きそれぞれの<感度>で本国へ記事を書き送った。
イギリスの「デイリー・エキスプレス」記者ウィルフレッド・バーチェットは「逃げのびたものも原爆症で死にはじめる」という見出しで「広島は、爆撃を受けた都市のようには見えぬ。それは巨大なローラーが通り過ぎて、ピシャッとその存在を押しつぶしたかのようである、私は今まで幾多の戦争による破壊を見てきたがこのように陰惨な情景を見たことはない。広島は禿鷹のみが住み得る町だ」という衝撃的な報告記事を送り、最後を「ノーモア ヒロシマ」で締めくくった。彼らの記事が世界へ原爆被害を知らせる第一報となった。
各国で報道された記事の情報を入手してアメリカ原子力災害調査団は急遽、東京・帝国ホテルに記者を集めて緊急記者会見を開いた。原爆開発のマンハッタン計画に参加した団長のファーレル准将はバーチェットの記事を否定して「爆撃は十分の高度をもって爆発したのだから、放射能で地上が汚染されるはずがなく、したがって今日、原爆症で死ぬ者などいない」と強調した。追い打ちをかけるように19日には総司令部(GHQ)から「日本にあたえる新聞準則」が発表された。ポツダム宣言に違反し、占領軍・占領政策を批判する報道はすべて規制するというものだったから日本の新聞やラジオからは広島・長崎の原爆被害に関する記事やすべてのニュースが<隠された>わけだ。
バーチェットが打電した記事をその段階で「読売報知」の記者がつかんでいたらどう書いたか。それとも知ってはいたけど書かなかったのか。謎は残る。
*1951=昭和26年 民放ラジオにはじめてコマーシャルソングが登場した。
前年に社団法人日本放送協会が公共企業体として特殊法人に改組されると民間放送が開始されることになった。一年あまりの準備を経て9月1日朝から中部日本放送(CBC)が、昼には新日本放送(NJB=現・毎日放送)が開局された。カメラとフィルムメーカーの小西六(現・コニカミノルタ)は民放で自社提供の新番組を始めたいという狙いから両局から30分の「放送枠」を購入し、音楽の作詞・作曲を三木鶏郎に委嘱した。
三木はNHKにできないものは何かを考え『ボクはアマチュアカメラマン』というコマーシャルソングを提案した。会社名や製品名を露骨に出すと聴取者が反感を買うかもしれないからという配慮だった。
アマチュアカメラマンが一度は失敗するのを歌詞にしたコミカルな歌詞で、歌手にはハワイ出身の人気歌手、灰田勝彦を起用した。せっかくだから1番の歌詞を紹介する。
僕はアマチュアカメラマン
素敵なカメラをぶらさげて
可愛い娘を 日向に立たせ
前から 横から 斜めから
あっち向いて こっち向いて
ハイ パチリは いいけれど
写真が出来たら みんなピンボケだ
アラ、ピンボケだ オヤ、ピンボケだ
ああ みんなピンボケだ
記念すべきこの日本初のCMソングは覚えやすかったこともあってなかなか好評だったが、これがコマーシャルソングだとはほとんどの人が気づかなかったそうだから、奥ゆかしいというか控え目というか。いまのしつこ過ぎる健康食品などには学ばせたい。
*1878=明治11年 渋沢栄一らが東京海上保険会社の設立を出願した。
背景には徳川幕府以前から長く続いてきた年貢米制度が新政府になって廃止になり、地租の納付が米から金銭に変更されたことがある。年貢米に代わって市場向けの米穀輸送の増大が見込める「海上輸送貨物」を保険の対象にした。現在の、と書こうと思って念のためと調べたら東京海上日動火災保険に変っているのがわかったからその前身。保険会社も銀行も合従連衡というか社名がコロコロ変わるから油断できません。いや、経営内容は信用できるとしても、です。