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“9月15日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1916年  激戦の戦場に奇妙な鋼鉄製の兵器が登場した。自由に走り回り大砲をぶっ放した。

第一次大戦まっただ中の北フランス・ソンム河畔、連合軍と交戦中のドイツ兵は仰天した。弾丸をはね返しながら唸りをあげて鋼鉄の物体が突進してくる。これが初めて姿を現したタンク=戦車だった。鉄条網や土のうをものともせず塹壕をいとも簡単に踏みつぶし、乗り越え、狙い定めたように大砲を次々にぶっ放す。ドイツ軍の前線はあっという間に総崩れとなった。タンクの語源はイギリスで作られた世界最初の戦車の開発委員会の秘密名にある。当初は水運搬車=Water Carrierだったが略すとW・C=便所となるのでやむなく「T・S委員会」となる水槽供給=Tank Supplyに変えた。このタンクが定着したとされる。ドイツ兵が腰を抜かしたのは“走る水槽”だったという嘘みたいな話である。タンクが投入される以前のヨーロッパの主戦場「西部戦線」は至る所に塹壕が掘られ、うず高く土のうが積まれた上に有刺鉄線が何重にも張り巡らされていた。突破に手間取る歩兵を塹壕から容赦なく機関銃や手投げ弾が狙い打ちしれた。どちらも人的消耗が激しく、その対抗策としてタンクが考案された。アメリカで開発されたばかりの土地の凹凸をものともしないキャタピラーが足回りに組み込まれたのが画期的だった。

*1600=慶長9年  「天下分け目の」と冠される関ヶ原の戦いが決した。

東軍7万5千、西軍12万8千で人数の上では西軍が有利だったといわれるが、そもそも正確に数えたわけではないから確かな人数はわからない。近年の通説を紹介しておくとこの日、夜明け時点の両軍は東軍8万8千、西軍8万3千とほぼ拮抗している。最初に紹介した東軍の人数より1万3千も多いから早くも西軍<寝返ったか>と思われるかもしれない。

当日の天候は秋の長雨のなか休みだったが小雨、朝からの大きな動きを時系列で紹介する。
午前8時ごろ:東軍先鋒の福島正則隊(6,000)を出し抜き、松平忠吉隊(3,000)と井伊直政隊(3,600)が西軍の宇喜多秀家隊(17,200)に発砲し戦闘開始。双方、押し引き。
正午ごろ:西軍の小早川秀秋(15,700)が東軍に寝返り、同じく西軍の脇坂安治(1,000)朽木元綱(600)小川祐忠(2,100)赤座直保(600)もこれに続き、西軍の大谷吉継陣(1,500)に殺到、吉継自刃、小西行長隊(6,000)と宇喜多隊も敗走、西軍の敗勢は決定的に。
午後2時ごろ:西軍石田三成隊(3,800)敗走、同じく西軍の島津惟新・島津豊久隊(1,600)が敵陣突破で敗走。午後4時ごろ:戦闘は東軍勝利で終息。徳川家康早くも<首実検>を開始した。

まったく動かなかった陣営もある。増水した木曾川の渡河に手間取って遅れたともいわれる東軍の徳川家康(30,000)にしてもそうだし、西軍の毛利秀元(13,000)長宗我部盛親(6,700)吉川広家(3,000)も動かず。<去就を決めかねて>ともいわれるが家の安泰を図って家康と<密約>が出来ていたからか。関ヶ原は戦の始まる前からすでに「密約と裏切りの戦場」だった。

*1908=明治41年  「帝国女優養成所」の開校式が行われた。

芝新桜田町の大庭理髪店2階のわずか17.5畳だったがマダム貞奴こと川上音二郎夫人が計画し帝国劇場創立事務所がバックについたことで世間の注目を集めた。帝国劇場の後援は一流の女優を養成し開演のあかつきには劇場に送り込む狙いがあった。応募規定は16歳から25歳までの高小卒業または同程度以上の女子で写真付き履歴書と東京市内に2名の保証人を必要とした。そうなるとかなり教育もあり身分ある家庭の子女ということになり応募は少ないのではと予想された。ところが応募が殺到、100人以上の応募者から15人が選ばれたが元代議士の令嬢がいるのを新聞で知った世間はまた驚いた。

開校式には帝国劇場の重役の渋沢栄一はじめ大倉財閥の大倉喜八郎、三井財閥の益田孝など錚々たるメンバーが顔を見せた。はじめに所長の貞奴が緊張している15人を一人ずつ紹介した。最初に立った渋沢は「私もこれで来年が70、歳をとると色々面白い目に会うものだ。従来、世間から賎(いや)しめられていたものが三つある。ひとつは私のような商人で、これを素町人(すちょうにん)といった、次が女子、最後が俳優だ。女子は<女子と小人は養い難し>といい、俳優・役者は<かわらもの>と賎しめられている。だが私はそのいちばん賎しめられている素町人の立場から女子かつ俳優である皆さんに大いなる同情と敬意を表する」と如才ない挨拶で盛り上げた。最後にあらためて貞奴が「精々、品行を慎みますからどうぞ皆様お助けを願います」と結んだ。

世間を騒がせた元代議士令嬢とは弁護士森肇の娘・律子で跡見高女を卒業していた。その後の人生を紹介しておくと努力の甲斐あって無事、帝劇の女優第一号になった。しかし女優になったことで出身の跡見高女の同窓会から除名され、第一高等学校生だった弟は自殺した。当時、女優になるということはそれほどスキャンダラスなことだった。それにもくじけず帝劇開場公演『頼朝』に浦代姫役で初舞台を踏み、その後渡欧してロンドン、パリの演劇事情に触れ、帰国後は帝劇の人気女優になった。のちに松竹から新派に移り1961=昭和36年、70歳で没。女優蔑視の風潮に見事なまでに抗した「近代女性」の一人である。

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