“9月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1877=明治10年 西郷隆盛が鹿児島・城山で自決、この日に西南戦争が終わった。
午前7時過ぎ、腹心の部下・別府晋介に「晋どん、もうここらでよか」と言って介錯させ49歳の人生に幕を下ろした。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允=桂小五郎とともに<維新の三傑>と称される。
薩軍の一番大隊が熊本に向けて出たのは7か月前の2月15日だった。明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に、実質的総司令官の産軍(副司令官)に長州閥ながら西郷の盟友で陸軍中将の山縣有朋と西郷の縁戚で海軍中将の川村純義を据えた。陸海両方の起用で余計な勢力争いを抑え、川村のほうは政府軍内の薩摩出身者の動揺を防ぐ意味もあった。熊本城包囲戦、田原坂の戦い、人吉攻防戦、都城撤退、可愛岳突破・・・薩軍が鹿児島に戻ったのは9月1日、最後の砦となった城山決戦で西南戦争は最終局面を迎えた。
午前4時、政府軍の総攻撃が始まった。決戦直前に城山の洞前に整列した将士はわずか40数名。被弾して倒れる者が相次ぎ、西郷自身も股と腹に銃弾を受けた。西郷に「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)と言って介錯した別府もその場で切腹した。西郷の首級は辱められるのを恐れ、布に包んで城山の一角に埋められた。一部始終を見届けた将士らもやがて自刃、刺し違え、銃弾に倒れていった。
午前9時すぎ、砲声がやむと大雨が降った。城山に流されたおびただしい血を洗い去ろうとするような激しい降りだった。雨後、政府軍による検視が行われた。西郷の遺体は戦闘終了後に発見された首と共に山縣も立ち合って詳しく調べられた。そのときの屍体検査書には次のように記されている。
「衣服、浅黄縞単衣、紺脚絆。創所、頭体離断、右大腿より左骨部貫通銃創、右尺骨部旧刀創、陰囊水腫」
遺体は毛布に包まれたうえ木櫃に入れられて仮埋葬された。木標の姓名は県令の岩村通俊が記した。その後、現在の南洲墓地に手厚く改葬された。
西郷の死後を少しだけ書いておこう。いったんは<賊軍の将>とされあらゆる官位を剥奪されたがその人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって1889=明治22年2月11日の大赦で赦され正三位を追贈された。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と漏らしたと伝わる。
*1967年 チェ・ゲバラの南米でのゲリラ戦はいよいよ最終段階に入っていた。
ボリビア南部、チリ、アルゼンチン、パラグアイ国境に近いリオ・グランデ川源流の山岳地帯を進む一行は失地回復の機会を政府軍によってことごとく潰されてしまう。奇襲に引っ掛かって3人が撃ち殺され、別の日にはもう1人が射殺された。荷物運搬用の3頭のラバも失い地元ラジオは別動隊の全滅をニュースで伝えた。
9月24日
ロマ・ラルガという入植地に達する頃、私は肝臓に鈍痛が走り、吐き気を催した。隊員たちはこの徒歩行でくたくたになった。私はブヒオへ向かう道路との交差地点で夜をやり過ごすことを決定した。われわれが近づくのを一目見るなりいっせいに逃げ去った者たちのなかで、唯一人家に居残っていた農夫が豚を売ってくれたので、それを殺して食肉にした。標高=1,400m。
この15日後、ゲバラはアメリカによって訓練・管理されていたボリビアの対ゲリラ活動軍によって負傷したまま捕縛され、翌日射殺された。遺体は厳重に隠されたが死後30年目の1997年にキューバとボリビアの合同捜索隊によって遺骨が発見され、遺族が待つキューバへ移送された。キューバではゲバラの<帰国を迎える週間>が設けられ、フィデル・カストロのゲバラをたたえるスピーチのあと多くの国民に見送られサンタクララにある霊廟に葬られた。
*1566=永禄9年 豊臣秀吉が墨俣城を築城したとされる。
初めに<される>と書いたのは別名「一夜城」と呼ばれて秀吉の立身出世物語には必ず登場するものの史実はどうも怪しいといわれるから。現在の岐阜県大垣市墨俣付近である。
この年、かねてから美濃併合を狙っていた織田信長は、前年に成立した武田信玄との縁戚関係を前提にして揖斐の墨俣に築城を企てた。このあたりは戦略上の要衝ではあったが長良・木曽・揖斐三川のたび重なる氾濫で水路が変わり本格築城はむつかしいとされていた。
それを引き受けたのが秀吉できわめて短期間に「城」と呼ばれる要害というか砦を築いた。「材木を組み立て、一夜にして完成。馬出し、柵、逆茂木を備えた龍に似たる長城。砦の普請まったく整い、清洲の信長に報告、金銀を褒美として賜る」と江戸時代の寛政年間に書かれた『絵本太閤記』。どこにも天守閣や櫓=矢倉、石垣など一般的な城の構成要素は出てこないから<城ということにした構築物>だったのだろう。