“10月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1392=明徳3年 南朝の後亀山天皇が「三種の神器」を譲り、南北朝が合一した。
室町幕府と南朝との講和交渉はそれまでも繰り返されていたがなかなか実らなかった。業を煮やした三代将軍足利義満は最終案としてこの3条件を提示した。
一、 後亀山天皇は「攘国」の儀式をもって「三種の神器」を後小松天皇=北朝に授ける。
二、 今後の皇位継承は、大覚寺・持明院両統の迭立とする。
三、 諸国の国衙領は大覚寺統、長講堂領は持明院統の支配とする。
迭立(てつりつ)とは「交互に立てる」という意味で国衙領は平安時代以降、国司が治めていた土地、長講堂領は後白河法皇の荘園で、窮していた南朝にとっては願ってもない好条件と思えた。
吉野山中を出発した後亀山天皇の一行は京を目ざした。『太平記』には「供の者は武装していたが関白といわれる人はさすがに直衣(のうし=公卿の服装)を着ている」と書かれているが天皇自身なのか側近なのか。従者もわずか40人というわびしさだった。京都に着いた一行はそのまま嵯峨の大覚寺に足留めされた。内裏に迎えられなかったことに不満と憤りをおぼえた後亀山天皇だったが「攘国の儀式」も一向に行われず「三種の神器」だけが供奉の人々に守られて雨の中を後小松天皇の土御門東洞院の皇居に移されただけだった。後亀山天皇を正式な天皇として認めるという約束も迭立も反故にされてしまう。
名目だけの<南北朝合一>はただただ義満の支配を完成させる最後の仕上げに過ぎなかった。半世紀にわたった南朝は落日からここにきて闇夜に消えていくことになる。
*1957=昭和27年 蔵前国技館の大相撲秋場所は西関脇の栃錦が14勝1敗で初優勝した。
初代若乃花との数々の名勝負が国民を熱狂させる「栃若時代」の到来だった。この場所は大相撲史では画期的な出来事があったことで知られる。土俵の真上の屋根を支える四隅の柱が取り払われ「吊屋根」になった。客席からの死角をなくすためのアイデアで柱の位置に青・赤・白・黒の房を下げた。観客には好評だったが行司は「目印がなくなって大弱り」と新聞に書かれた。長年馴染んできたのだからその通りかもしれません。
*1922=大正11年 東京・千葉・神奈川を中心にコレラが猛威をふるい70人以上が死亡した。
前月に銚子の漁船員から発生し生魚を通じて全市に広まったとされた。東京や横浜からも相次いで患者が出たことからパニックが広がり警察庁はこの日、東京湾での漁業を全面禁漁にしたため魚市場や魚屋も休業に追い込まれた。郵便局では集配したすべての郵便物を噴霧器で消毒し、200万人が予防注射を受けた。
生魚が<標的>にされたのは濡れ衣以上に気の毒と思えるが、当時はそれだけ衛生事情が悪かった。10月末になってようやく患者発生は下火になった。
*1894=明治27年 わが国初の月刊時刻表『汽車汽船旅行案内』が発売された。
東京の庚寅(こういん)新誌社が創刊したもので定価6銭、四六判、全94ページの小冊子で表紙は赤い格子の線を<井桁>に4本入れ、題字を毛筆で書いている。発行年月日、発行元と上に「毎月発行」を大書している。表紙は現在の時刻表とは逆に左から右へ開くと折りたたみの日本地図があるが都道府県名ではなく相模、駿府のように旧国名で表記されている。既設路線と工事中の路線が分けて描かれ、東海道本線は全通、山陽本線(当時は私鉄・山陽鉄道)は広島まで。東北本線(同・日本鉄道)は青森までの全線が開通、鹿児島本線(同・九州鉄道)は門司から熊本のひとつ先の川尻まで開通していることがわかる。
最上段に駅名が右から左へ、その下に各列車の発車時刻が漢数字で並んでいる。駅名は左端、列車ダイヤは上から下へという今の時刻表とはまったく勝手が違う。各駅からの人力車、馬車、駕籠、人足の案内と料金が詳しく「大雨ハ二割増」「泥道ハ一割増」「大至急ハ五割増」などの注意書きが面白い。汽船も主要港からの航路とダイヤ、料金が細かく掲載されている。
広告の多さも目を引く。日本郵船の10ページをはじめ大阪商船、各私鉄など。変わったところでは護身用の新型ピストルと英国製の新式二連猟銃や慶応義塾の塾生募集まである。これは経営者の手塚猛昌が慶応の卒業生で、時刻表創刊も福沢諭吉からのアドバイスだったことによる。創刊号から引っ張りだこになり、以後綿々と発行された。手塚は帝国劇場専務、東京市街鉄道重役、東洋印刷社長などを歴任し実業界の実力者となった。
これを書くにあたって久しぶりに手元の「復刻版」を開いて明治時代にタイムスリップしてしまった。時刻表は<使い捨てられる>運命にある出版物なので古書市場では復刻版でも数千円、現物なら数十倍で取引される。ついでの<無駄遣い>がやっと役に立ったか。