“10月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1960=昭和35年 日比谷公会堂で社会党委員長・浅沼稲次郎が演説中に刺殺された。
自民・社会・民社の三党首立会演説会での一瞬の惨劇だった。自民党の池田勇人首相に次いで二番目に登壇した浅沼は2,500人の観衆を前に右翼のヤジでの中断をはさみながら独特のしわがれた大声で主張を展開した。午後3時5分、突然演壇に駆け上がった学生服にジャケット姿の男が銃剣を構えて浅沼に体当たり、さらにもう一度胸を刺した。会場は一瞬静まり、騒然となった。浅沼は病院に運ばれる途中、公会堂の階段踊り場で絶命した。
演説会はNHKラジオが生中継していたが、テレビでも生々しい映像とともに臨時ニュースで伝えた。浅沼はヌマさんの愛称で人気があり、早稲田では雄弁会で弁論を鍛え、相撲部では副主将をつとめた巨体で全国を駆け回って力強く遊説する姿は「人間機関車」とも評されて人気があった。さらに犯人が少年だったことも国民に大きな驚きを与えた。
刺された衝撃で浅沼の黒メガネがずり落ちる瞬間の写真は毎日新聞のカメラマン・長尾靖がフィルムの最後の1枚で捉えた。世界に配信されて日本人初のピューリッツァー賞を受賞したことでも知られ「浅沼刺殺事件」といえばこの写真が使われる。各社のカメラマンも演説会を取材していたが右翼による2階からのビラまきなどを撮るため舞台には長尾しかいなかった。警備が手薄になったのもビラまき騒ぎがあったからともいわれた。
手元に女性報道写真家・笹本恒子が浅沼を自宅前で撮った1枚がある。和服に羽織姿で胸元にはラクダの下着がのぞく。足元は黒足袋にちびた下駄、おなじみの黒色ロイドメガネで早く済ましなさいと言わんばかりの表情だ。悲劇に倒れる数日前で、笹本はこの写真が気に入らなかったので撮り直したいと頼んだ矢先だった。お悔やみの電話に夫人が「あんなに大勢の方が見ていらっしゃったのに」と言われて胸がふさがる思いだったという。
浅沼の遺体は30年間住み慣れた江東区白河町の同潤会アパートに戻り、労働者、文化人、政治家などあらゆる階層の人たち約6,000人が弔問に訪れた。九段会館での社会党葬では葬送曲『同志は倒れぬ』が歌われるなかすすり泣きと嗚咽の献花列が続いた。その一節に「恐れず君は白刃の嵐をつきて進みぬ」とある。61歳、まさしく白刃の嵐に見舞われた無念の死だった。
*1945=昭和20年 韓国南西部にある所里島の港を一隻のオンボロ帆船が出港した。
所里島は地方都市の麗水(ヨス)沖20キロの玄界灘に面したところにある。乗り組んでいたのは木浦(モッポ)の新聞社「木浦新報」で記者をしていた愛媛県出身の俳人・村上杏史(きょうし)と家族、知人ら計63人で荒波を越えて日本を目ざした。海の経験は皆無だったが38歳の村上が<船長>ということになっていた。
村上は敗戦の3カ月前、再度の応召でいまの北朝鮮の平壌(ピョンヤン)に着任したがソ連の参戦ですべてが一変した。仲間の多くを失いながら命がけで38度線を越えて木浦にたどり着いたが住みなれた街の姿はもうなかった。ソウルや釜山などの都会では早くも日本人排斥運動が始まり木浦でも官庁、団体、会社まで日本人に代わって職権を握った韓国人幹部たちがのさばり始めていた。敗戦直後から程度のいい動力船はいち早く逃げ出した軍関係者を乗せて日本へ向かった。残った動力船もあらかたが押さえられるか、べらぼうな値段の「闇船」になっていたから<自力帰国>はほとんど望み薄だった。そんな折、知人から売り船の情報が入った。風に帆をふくらませて網を引く打瀬(うたせ)漁に使われていた木造の通称・打瀬船で波には強そうだが長い間、廃船にされていたという代物だった。船名は「秀丸」、全長23m、幅5m、19トンで値段も6万5千円とまずまずだったので交渉成立。船大工を相場の倍の1日百円で6人雇い、三日三晩の徹夜工事で舷側のかさ上げや屋根をつけて船室を造るなど外洋航海用に改造して羅針盤やロープなども準備した。
「闇船密航取締り」が始まった木浦を夜陰にまぎれて出港したのが5日、船頭と舵取りを引き受けたのは九州天草出身の唯一船乗り経験がある老人で、破れた個所をつくろった帆だけが推進力だった。ばかでかい帆の上げ下ろしには7人がかりでやっと。風待ちや潮待ちだけでなく警備船を避けながら多島海を東南の釜山方向に進んだ。
10日には台風が襲来、危うく巻き込まれかけたところを所里島の漁船に発見され曳航してもらった。離島で警備強化要請もまだ届いていなかったことも幸いして漁業組合の幹部に応分な謝礼を渡すと喜ばれた。しかも彼らの持つ日銀券と朝鮮銀行券との交換や闇船拿捕で拘留中の日本人船員らを積んでいくことまで頼まれた。ここで対馬への最短ルートとなる釜山周辺は警備が厳しいという情報をもらい<大きな賭け>ではあったが玄界灘越えの直航コースを取ることに変更した。
玄界灘に出ると船はうねりに翻弄された。帆桁は強風にギリギリ鳴り、舵は壊れそうなくらい揺れる。乗客たちは船室で船酔いに苦しんでいたが村上船長や船頭は徹夜で踏ん張り羅針盤だけを頼りに九州本土をめざした。13日午後2時30分、はるか前方に壱岐が見えた。全員が甲板に上って泣きながら手を合わせた。
14日午前7時、佐賀県呼子港入港。危うく遭難しかけた同じ台風で数十隻が難破したのを知ったのはそのあとだった。