“10月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1868=明治元年 明治天皇の一行はこの日、品川宿を発ち京橋を経て「東京城」に入った。
このとき東京は「とうけい」と呼ばれていた。3月に大阪への行幸を終えた17歳の天皇は東京遷都の準備として9月20日に京都を出発して東京に向かった。天皇の権威を誇示するにはまたとない機会だったので岩倉具視以下藩兵2千人もの行列が仕立てられた。錦絵『東京府中橋街通之図』などには錦の御旗を先頭に隊列を組んで進む天皇の鳳輦(ほうれん)や人馬の行列が詳細に描かれている。天皇の姿をこの目で実際に見ようと集まった人々が道端に何十列にもなって座り込んでいるのもおもしろい。
大阪への行幸は大久保利通らの「大阪遷都論」に対して<実際に行ってきましたからね>という形式的なものだった。大阪遷都が実現しなかった背景には公卿らの大反対があったからだが東京遷都は新政府に抵抗した関東や東北の人心を考慮した措置だったといわれる。この年にはやった『トコトンヤレ節』の4番は武士をからかっている。
おとに聞えし関東武士(さむらい)
どっちへ逃げたと問うたれば
トコトンヤレトンヤレナ
城も気概も捨ててあずまへ逃げたげな
トコトンヤレトンヤレナ
そこへ乗り込んできたのが天皇一行だった。江戸(東京)を逃げ出した武士たちで東京は一時、大幅な人口減少となるが東京には近代化のために使える土地が豊富に残っていた。幕府や大名の土地建物がそのまま新政府の機関に利用可能で幕府の役人や商工業者の人材も活用することができる。その意味では江戸の持つ<首都性>を東京に引き継ぐのが早道だったわけでこの一大デリゲーションは十分に計算し尽くされたものだった。
途中の町村では推薦を受けた老人や<孝子>らを表彰しながら進んだことでも大きな話題になったし沿道の人々には伏見や灘から運ばれた祝い酒が振る舞われた。用意された酒は3,500樽だったが東京市民に振る舞われたのは2,990樽とされるから差引500樽以上が途中で飲まれた計算になる。<お代り自由>だったかどうかは別としておいしい酒をいただいて天皇に対する気持ちがぐんと良くなったのは間違いない。
反対にやきもきさせられていたのは御所のある京都の人々だった。7月17日の詔勅によって江戸が東京になったのはいいとして京都が西京になったのは納得いかなかった。しかも「天皇はこのまま京都にはお戻りにならない」という噂も飛び交っていたからなおさらだった。年の瀬の12月にようやく天皇の帰洛があって一安心したのも束の間、翌年3月には再び東京へ。唯一の救いだったのは江戸城が御所ではなく皇居になったことだった。
*1884年 ロンドン郊外のグリニッジ天文台を通る子午線を「経度0度」と定めた。
大航海時代、航海の指標となったのは北極星を中心とする星の運行で海洋国家を目ざすイングランドは航海の支援を目的として天文台を建設した。外洋航海においては正確な緯度と経度の計測が不可欠で、さらに経度の修正に使うクロノメーターの開発でも時刻の基準となる経度基準が必要になった。こうした背景により1675年に国王チャールズ2世が王立天文台としてテムズ河畔のグリニッジ・パーク内に創設したことでこの名がついた。子午線の基準が決められたことでここの時間が「世界標準時」となったが1990年に王立天文台がケンブリッジに移転したことで観測拠点としての機能は終え史跡になっている。
わが国における経度は江戸時代には京都にあった改暦所という役所を通る子午線を基準にしていた。それが東京遷都に伴って1871=明治4年に皇居・富士見櫓を通る子午線に移された。京都の人々にとってはこれも腹立たしいことだった。それが間もなく1886=明治19年7月13日の勅令「本初子午線経度計算方及標準時の件」でグリニッジ子午線を「基準子午線」に採用することになったから多少は慰めになった。
グリニッジ子午線を巡っても過去から各国のさまざまな確執があり、激しい議論や投票までされてきた。強硬派はフランスやアメリカ。それを思うとはじめに着想した国が自国に「0度」を置いたのは<早い者勝ち>だったなといまさらながら思う。
*1926=昭和元年 帝展=帝国美術院展覧会の日本画部門で191点もが大量入選した。
選考方法を巡る改革派と守旧派の対立があって「それならすきなだけ入選にすればいいではないか」となったが入選作品が多すぎて陳列不能となる珍事になった。
1907=明治47年に「文展」=文部省美術展覧会としてスタートしたのがはじまりで1919=大正8年に「帝展」となり1937=昭和12年にそれが廃止になると「文展」に戻った。<美とは何か>を巡る権威の確執は意外な軋轢を生む。<美醜>とは<美>とそれを巡る永遠の<醜なる確執>であろうか。