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“10月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1876=明治9年  熊本で旧士族による最初の反乱「神風連の乱」が起きた。

新政府の進める帯刀禁止令や散髪令などへの不満が爆発したものでこれに呼応して福岡の「秋月の乱」や山口の「萩の乱」が立て続けに起こり、翌年の「西南戦争」につながる。
中心になったのは別名を神風連といった敬神党。神道を重んじる復古主義・攘夷主義の思想団体を主宰した林桜園(おうえん・1798-1870)の私塾「原道館(げんどうかん)」の門下生ら約170人で組織された集団である。

この日、各所で武装し深夜、熊本城内にあった熊本鎮台や司令長官・種田政明邸、参謀長・高島茂徳邸、県令・安岡良亮邸などを襲撃した。種田と高島は死亡、対策会議を開いていた安岡は部下らとともに襲われ、その傷がもとで3日後に死亡した。警護の兵士らは防戦一方となり約60人が殺され負傷者も200人以上に上ったが翌日になって政府軍が巻き返し、城内に立てこもっていた神風連側を総攻撃した。首謀者の太田黒伴雄は銃撃を受けたあと介錯され死亡、生き延びたメンバーも自刃するなどで124人が死に、約50人が逮捕されて乱は鎮圧された。

「神風連の乱」そのものは<純粋に思い詰めた>若い旧士族を中心に起きた。だが事件は意外な人間模様をあぶり出す。種田邸には妾2人高島邸にも妾1人がいた。種田邸の小勝は怪我で済んだがあとの2人は巻き添えで死ぬ。小勝は東京・日本橋の芸者で気風の良さに惚れた種田が熊本へ連れて赴任した。小勝は夜明けを待って熊本電信局に走り、父親あてに「ダンナワイケナイワタシハテキズ」と打電した。電文が『仮名読新聞』に掲載されると「語簡にして意深く」と絶賛され<下の句>を作る者が続出するなど流行語になった。さらに後日談がある。小勝は熊本城内の陸軍病院で治療を受けて回復すると日奈久温泉で湯治した。西南戦争が起こると他の女性たちと熊本城に籠城して負傷兵を看病した。これが評判になり錦絵や講談、都々逸に取り上げられた。まさに<怪我の功名>と言うべきか。

*1929=昭和4年  「暗黒の木曜日」といわれたウォール街の株式大暴落が起きた。

壊滅的な株式下落は翌日の金曜日、さらに翌週の月曜日、火曜日と4段階にわたり続く。株式取引所の周辺は不安におののく人の群れがあふれ警備のために警官400人以上が動員されたことでも異様な雰囲気を醸し出した。株は連日売られ、一日で千三百万株が売られる大暴落になった。この週だけで破産した株屋が10人以上も自殺し、アメリカ初の株価大暴落は世界を揺るがしていった。

ニューヨークは世界の大都市に仲間入りし、ウォール街は世界の指導的金融センターのひとつになっていた。これに先立つ<狂騒の20年代>といわれた10年間は<富と過剰の時代>が続き、繁栄に酔いしれた人々は一夜成金の夢を追い、投資の危険性を危ぶむ声が何度も上がったにもかかわらず株投資に狂奔するばかりで誰も耳を貸そうとはしなかった。しかしたった一日で強気相場の楽観論と金融上の見せかけ利益は雲散霧消した。

株式の下降はさらに1カ月以上も続く。「20世紀最大の財政危機」ではあったが実体経済の変動とはずれがあったから続く世界恐慌に直接影響したのかについてはいまも議論がある。むしろ株式投資に失敗した多くの金融機関が破たんに追い込まれることで金融システムが崩壊したことが恐慌の直接の引き金になったとされる。やがて生産力そのものも低下し所得の不均衡や金融制度の不備が歪んだ経済状態を作り出していく。33年まで株価は下がり続け農業は崩壊、工業生産は止まり輸出超過の国際収支から大恐慌が確実に世界を覆って行くことになる。独立戦争に次ぐアメリカの悲劇とされる。

*1953=昭和28年  国会議事堂に滋賀県から運ばれた近江牛11頭が並んだ。

この日午前、3台の装飾トラックの荷台に油単(ゆたん)という派手な肩覆いを垂らし、紅白の腹帯を巻いた大きな近江牛を乗せて銀座通りをパレードした。松阪牛と神戸牛が首位を競っていた首都の肉牛商戦に割って入ろうという近江肉牛協会の宣伝作戦でトラックは日比谷通りから国会議事堂に向かった。玄関前に11頭が<整列>すると滋賀県選出で衆議院議長に就任していた堤康次郎が公務の時間を割いて現れ、1頭ずつの首にレイ=花輪をかけて回った。

国会への<牛の表敬訪問>など前代未聞のできごとだったから新聞カメラマンも多数待ち構えたが堤たちは空を見上げる。やがて飛んできたのはチャーターしたセスナ機で大量の小さなパラシュートがゆらりゆらりと落ちてきた。それぞれに30―50匁(約113―190グラム)の牛肉包みが取り付けられていた。セスナ機は新宿上空からも<牛肉のパラシュート>を投下した。用意されたのは約300包で新聞には「空から近江牛、都民のドギモを抜く」「拾った人は大はしゃぎ」などと報じた。これとは別に戦災孤児を収容していた都内の各孤児院には肉牛1頭分がプレゼントされたから子供達も大喜びだった。

堤は西武デパートやプリンスホテルなどの総帥だったから郷土が生んだ近江牛のPRには特に力を入れ、西武デパートとプリンスホテルの牛肉はすべて近江牛だった。こうした宣伝効果もあって近江牛の知名度も上がり、三越、松坂屋の売上トップが松坂牛なのに対抗して西武、高島屋、大丸、白木屋では近江牛がトップに滑り込んだという。

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