池内 紀の旅みやげ(38)越後上布と雪さらし─新潟県塩沢町
越後上布(じょうふ)は新潟県南部の魚沼地方の特産である。原材料は麻の茎。皮を剥いで雪にさらし、漂白したのを裂いて糸にする。特有のちぢれをもつところから「越後縮(ちぢみ)」の名で親しまれてきた。江戸時代の雪の記録として知られる『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』の著者鈴木牧之(ぼくし)は縮問屋の主人であって、それが雪国で生まれた理由を簡明に述べている。
「績(う)みはじめから織り終わるまで、すべて雪のなかの作業である」
漂白した麻の皮を糸にすることを「績(う)む」というが、しめりけがないと糸が切れてしまう。織るにあたって細い糸をちぢめたりのばしたりするので、やはり湿気が必要だ.雪がもたらす天然のおしめりが天下の名産を育ててきた。
かつて何軒もの問屋があって太市(おおいち)が立つほど流通したが、時代の流れのなかでつくり手がいなくなり、今では技術保存協会によって、ようやく命脈を保っている。そんな現状にあって、南魚沼市塩沢町に一軒だけ、昔ながらにつくりつづけている家がある。重要無形文化財といった指定にたよらず、商品として仕上げ、顧客から汗がしみたり汚れた着物がとどくと、ほぐして雪さらしで元どおりにしてもどす。主人はそれを「ジョーフ(上布)の里帰り」と称している。
「まあ、道楽ってものだネ」
皮の漂白や糸づくりは、古くから東のやまをこえた会津の里につくる人がいて、そこから届けられる。機織(はたお)りの工程は正確に数えると四十にものぼり、根気がなくてはつとまらない。もともと速く織ろうとすると糸が切れたり、もつれたりする作業であって、およそ量産に会わないのだ。ひたすら我慢くらべ。
時代に即さない職人肌の父親に、娘さんが後継ぎを買って出た。親娘のコンビで越後縮がいまも立派に生きている。そっと雪さらしの日程をおそわったので、いそいそと出かけていった。二月から三月にかけてがシーズンだが、名うての豪雪地帯であって鉛のような空がつづく。祈りをこめたせいか、その日は藍染めのような青空で、見渡すかぎり白皚皚(はくがいがい)の世界に、淡い色模様の布が光の帯のようにのびていた。
縮みにするには「絣(かすり)くびり」という作業が要る。手作業で数ミリ単位に木綿糸をくくりつける。一日やって二〇〇〇ポツ(くびり)がせいぜいで、天文学的数字をこなさなくてはならない。くびり方が悪いと染める際、絣の幅が不揃いになる。
雪にさらすと布が白くなり、絣の目の色が鮮明になる。先人の知恵であって、自然を仕事仲間にしてきた。しみや汚れも雪に吸われてあとかたもなくなる。雪の力の偉大さに、つくづく頭が下がるそうだ。
もともと雪国の風土に生まれた布であって、農家の普段着や仕事着にあてられていた。やがて普段着は木綿が取って代わり、麻織りの技術が高度化するとともに「上布」とよばれる高級織物になった。麻は日本の夏場によく合っている。風通しがよくて湿気を吸ってくれる。洗濯しても痛みにくいし、水にぬれると強くなる。一生ものとして大切にした。
使い捨て時代の到来とともに、みるまに手織りがすたれていって、ご主人の言い方だと、「坂道をころがるように」つづけてきた。この織物が好きだし、ワザが好きだし、績む人がいるし、身につけてよろこんでくれる人がいる。娘はそんな父親を見て育ち、当然のようにして手伝ってきて、いまでは立派な跡とりである。
きれいにならした雪上に、仕上げた布、ほぐして湯もみした長い布を、ほどよくひっぱりまんべんなく雪にあたるかたちで寝かせていく。太陽の光が上布にはいいのだ。冷たい雪と、あたたかい陽光が玄妙なはたらきを見せる。家並みの切れた一角で、雪さらしのための土盛りのされたところ。東に魚沼の連山が控えている。雪山がノコギリ状に峰をつらね、背後から越後三山の秀麗なトガリがのぞいていた。
息を吞むような美しい光景だった。すげ笠をかぶった主人が布をもち、娘に合図して、そっと雪に下ろしていく。そのあとはひろがりぐあいの調整だ。雪上の黒いかたまりになり、フシギないきものがしゃがんで、じっとあたりをうかがっているかのようだ。空と雪と布。ひたすら鉱物的世界にあって、そのなかの黒一点。ハタと時間がとまり、太古か超未来の一瞬をともにしている気分だった。
【今回のアクセス:JR上越線塩沢駅から徒歩二十分ぐらい。雪さらしの場所は秘密】