書斎の漂着本 (12) 蚤野久蔵 私の日本地図
「旅する巨人」ともいわれる昭和を代表する民俗学者、宮本常一の『私の日本地図』は、東京・本郷の同友館から発刊された<不思議な>シリーズである。理由は後にするが、宮本の徹底した調査の旅は日本列島のすみずみまで印され、それを物心両面で支えた師の渋沢敬三は「日本列島の白地図の上に、宮本君の足跡を赤インクで垂らしていくと日本列島は真っ赤になる」と評した。宮本は73年の生涯に延べ日数で4,000日、合計16万キロの旅をした。一生の7分の1、地球をちょうど4周した計算になる。
これは昭和46年(1971)3月に発行された9巻目の「瀬戸内海Ⅲ」で、宮本の生まれた周防大島と東隣の情島を紹介している。絶版で図書館にもなかった<幻の一冊>だったから入手はあきらめていたのに、東京駅八重洲地下街の古書店にあるのを奇跡的に見つけた。いくら著者のファンだからといって熱心というか、我ながらあきれてしまう。
<不思議な>と書いたのは、このシリーズは著者の多忙もあってか不定期このうえない発行になったからだ。もちろん出版社側の事情もあったことは想像に難くないが、まず昭和42年3月に第1回配本として「天竜川に沿って」が出版された。このときの付録「日本の旅」には、第2回配本として予告した「上高地」=5月中旬発売=が1カ月遅れで出た。だがその付録には第1回の正誤表があるだけで、次の第3回「下北半島」の予告はなく、同じ年の11月刊、さらに半年後の翌年5月刊の第4回「瀬戸内海Ⅰ広島湾付近」には付録代わりの葉書が入っている。「毎巻ご愛読いただき厚く御礼申し上げます。選書・私の日本地図は毎月定期的に出版されるものではありません。宮本常一先生一人が書きおろされる30巻近くの<一人叢書>ともいうべき未踏の企画だからです。そのため、発行のつどご案内申し上げますので、このカードを是非ご投函下さい」という文面だが「七円切手をお貼り下さい」と、何だ!の案内である。
宮本の原点になったともいえる故郷・周防大島は山口県の東南、瀬戸内海に浮かぶ。淡路島、小豆島に次ぐ面積があるが人口ははるかに少ない過疎の島である。地図を見ると金魚にそっくりだが島とはいっても昭和51年にできた大島大橋で西対岸の柳井市と結ばれている。橋は金魚のちょうど口の部分にあるが宮本の実家は東に行った尻尾の上の付け根のあたり、長崎という集落にある。
私の家は長崎のお宮の森の東北の下にある。村の東のほうにある本家から分家して、ここに家を建てた頃、周囲に家は一軒もなかったという。家の裏は石垣を隔ててすぐ海であった。潮がみちてくると波のある日はその波が石垣に当たってしぶきになって、家の上にふりかっかってきたし、時には家のまえの道に滝のように降りそそぐこともあった。
宮本の子供時代には埋め立てで内陸になっていたのでそういうことはなかったが家は貧しかった。もっともこの本ではそれは書かれていないが、長崎集落を語るために欠かせないとして最愛の肉親としてではなく民俗学者の目で淡々と紹介する「母の死」は心に迫る。
私の母はこの自然の中に生まれ、死んでいった一人である。少女の頃山口へ出ていって子守奉公をしたことがある。また晩年になってよく旅をしたけれどもその大半の生活は長崎という在所でおこなわれた。母の生家は私の家の隣であった。私の郷里は恋愛結婚が多かった。昔からヨバイの盛んな所であったから。私の父母や祖父母、外祖父たちも皆好いて好かれていっしょになった仲である。親戚の者を見ても大半がそうであった。だが、隣同士ではあまり近すぎるからといって母の親たちが反対したら、父が母の親のところへやっていって、どうしても嫁にくれと強談判して話をつけたそうである。貧乏な家に嫁に来て苦労も多かった。それに父は短気でよく母をどなりつけていた。しかし父が五〇歳をすぎてからは別人のようにおだやかになり、仲のよい夫婦であった。その父が死んで後、母はさらに三〇年ほど生きて昭和三七年三月に死んだ。
死の前々日、私は隣の町へ講演を頼まれてゆき、大きな鯛をもらった。私の家では食べきれないので親戚へもわけようと次の朝持って出た。私も九州へゆくために家を出た。母はその午後、丘の上の麦畑の中耕に出かけた。南の風がそよそよと吹いて、晴れたよい日であった。母はその畑を愛していた。見晴らしがよいので仕事をするのも楽しみであった。畑のそばの細道を時折人が通った。「精が出ますのう」と声をかけられると「明日は大阪へ行かねばならぬので」と挨拶した。ちょうど爪の母も私の家に来ていて、婆さん二人が畑の中で働いていたのであるが、すっかり仕事をすまして、畑の畔まで出て来たとき、母はどうした拍子にか麦の上に坐った。そして立てなくて横になった。妻の母が驚いて声をかけた。「ちょっと気分が悪いので」といったので妻の母は畑を北へ下ったところにある親戚へ知らせに行った。そのあたりの人が心配して戸板を持ってきて母をその上に乗せ、丘の上から私の家まで運んでくれた。医者に見せると、脳出血とのことで、その夜すぐに佐賀県にいる私のところへ知らせてくれた。私が佐賀から帰ったとき、まだ息はあったが、意識は不明だった。そしてその夜息をひきとった。生涯苦労の多い人であった。しかしふるさとの自然と人間の中にしっかりと生きてきた。村人とのつきあいも決しておろそかにしなかった。
葬式のときには講中の仲間もみんな集まってくれた。生涯を働きつづけ、他人に大した迷惑もかけず、好きな風景の中で大して苦しみもせず、心あたたかい人びとに見送られて死んでいったのである。おそらく思いのこすこともなかったであろう。死の翌日葬式をおこなった。寺の後ろの丘に火葬場がある。野天に壺を掘っただけのものであったが、数年前に周囲を煉瓦で囲んだ。その中へ棺をおき周囲に割木を詰め、上に藁のおおいをして火をつける。その夜火屋(ひや)見舞といって焼ける様子を見にゆき、その翌日骨拾いにゆく。昔のままの通りに葬儀をおこなった。母もそれを望んでいたであろう。
「母のたおれたムギ畑、ここからの見晴らしはよい」「「葬式の旗、草履など」「母の骨を拾う」「墓まいり」・・・写真説明はあくまで宮本家の、ではなく長崎集落での葬儀のようす、である。
「書きおろし30巻の<一人叢書>ともいうべき未踏の企画」で始まったこのシリーズは10年がかりで終わった。私がはじめて手に入れたのは興味のあった最後の15巻目「壱岐・対馬紀行」(昭和51年10月)で、それ以後、古書店で見つけるたびに購入した。別に<全巻コレクター>というわけでもなく、読むためだからご覧のように不揃いである。それがどうしたの類ではあるが、9巻目を入手したのもちょうど10年目である。
紹介した第9巻はジグソーゲームでいうと「最後のピース」ではあったが、旅する巨人・宮本が「私の地図」としてどうしても書きたかった1冊ではなかったか。