書斎の漂着本 (24) 蚤野久蔵 たつまき上
竜巻の世界的権威で「ドクター・トルネード=竜巻博士」と呼ばれた気象学者・藤田哲也の『たつまき上』である。昭和48年(1973)に東京・共立出版から「科学ブックス20」として出版された。手に入れたのは十数年前になるだろうか。当時、古書店めぐりを兼ねた散歩コースにしていた東京・荻窪南口近くのささま書店の店頭で見つけた。「上」だけだしカバーもないからいわゆる端本・裸本扱いで100円だった。読んでおもしろかったのでめずらしく出版社に問い合わせた。ところが過去の出版リストにも「下」はなかった。「よほどのことがないかぎり上下2巻で企画したのならその通りに出版したはずだから、当時のことがわかる人間に聞いてあらためて返事をしましょう」ということだったが数時間後にもらった返事は「やはりこれだけが出されたものの、著者の多忙なども重なって出版されないままになったようです」というもので、この「上」もすでに絶版になっているとも付け加えた。
『たつまき 上』―渦の驚異―
藤田哲也著、共立出版
藤田は大正9年(1920)に福岡県北九州市で生まれた。現在の九州工業大学の前身である小倉の明治専門学校を卒業し、物理学の助教授をしていたが昭和20年(1945)8月に広島、長崎に相次いで原爆が投下された。終戦直後の混乱にもかかわらず、学校ではこの新型爆弾の調査をすることになり、原爆調査団の一員に選ばれた藤田らは、まず同じ九州の長崎に向かった。そこで見た惨状に打ちひしがれながらも、原子爆弾の正確な爆発位置を測定するために爆心地を歩き回った。編み出した計算方法はこうだ。爆風は爆心から放射状に外側に向かう。一方で爆心部分は上空からの爆風が垂直になるので建物や樹木は比較的残りやすい。藤田は各地点の建物、なかでも焼け残ったコンクリート構造物や大木などの倒れ方や、それぞれに残る熱線の角度から位置を計算していった。しかし強烈な爆風により位置が大きくずれている。ようやく調査開始の3日目に、墓地の墓前の花を供える竹筒が爆風の影響を受けず焼け残っていることに気がついた。周辺の墓地をしらみつぶしに調査して導き出した<1点>は「地上520m」だった。「夜間、いくつものサーチライトが空を照らすように光線が交わるイメージ」と解説するが、後に米軍が原爆を投下したB29の飛行経路などから大型コンピューターを駆使して演算した数値とほぼ同じだった。藤田は続いて広島でも同じ方法で爆発高度を計算したが、こちらもその正確さが実証されている。
昭和28年(1953)に東京大学で博士号を取得すると藤田は年末にシカゴ大学の客員研究員として渡米するが、そのきっかけになったできごとが「まえがき」に書かれている。それは9月に新聞の片隅に載った「筑後平野にたつまき」という小さな記事だった。藤田は「好奇心以上のなにものでもないが」と前置きするが、さっそく現地調査を思い立つ。
むしむしする満員列車の三等車にゆられて到着後にみた現地の様相は、旅の疲れが一瞬にして吹き飛ばされるほどすさまじいものであった。見つからない屋根の行方を捜しながら田んぼのあぜ道沿いに歩いて行くモンペ姿の主婦。道端で自転車のパンクを直しながら、それを竜巻のせいだとブツブツ言っている青年。地上に出ている部分が、文字通り水平に、強風の方向にひれ伏している多数の稲。その近くを徐行しながら通り過ぎてゆく列車の窓から突き出しているあっけにとられた顔、また顔。それに続けて始まる線路工夫の勇ましい掛け声など、それは人間とたつまきのたたかいのひとこまであった。
たつまきの研究をするには、やはり発生件数が圧倒的に多い<本場>の米国がふさわしいと考えていたから、シカゴ大学からの誘いはまさに「渡りに船」だった。とはいえ、最初からたつまき研究を手がけたわけではなく気象学を学びながら、昭和40年(1965)教授に就任、アメリカの市民権を得るとますます研究に拍車がかかった。現在も世界中で使われているたつまきの規模を示す「藤田スケール」を発表、昭和50年(1975)にジョン・F・ケネディ国際空港で起きたイースタン・エアライン66便の墜落事故では、原因はパイロットの操縦ミスではないかとされたのを覆し、着陸寸前に発生した強いダウンバースト(下降噴流)によるものであると発表して航空会社の窮地を救っただけでなく、ドップラー・レーダーを使えば予測が可能であると立証したことで世界各地の空港にこのレーダーが配備されることになった。
この本は目次からして面白い。第二章「たつまきの残したミステリー」を紹介しよう。
・大宮で空中飛行した大木と洗濯機
・浦和市道祖土(さいど)では畑の大根が引き抜かれる
・鶏のまるはだか
・卵の殻を割らずに中に入った豆
・中身を入れ替えられた冷蔵庫と自動車
・子供が吸い出されて死んだり助かったり
・乳搾り中に牛が消える
・1200メートルも中を飛んだ16トンのタンク
・100台の車のヘッドライトだけ割って逃げる
・3年続けて同じ町が同じ日の同じ時間に襲われた
これはほんの一部であるが、すべて実際に起こったことでていねいに「なぜ」を解説する。畑の大根が引き抜かれたのはたつまきの渦の中心部の気圧が低いからであると説明されるが「鶏のまるはだか」は。
1917年6月5日、カンザス州トペカ市の郊外で被害地を歩いていた人が、さかさまになった箱をなにげなく蹴飛ばしてびっくり。なんと中から丸はだかの鶏が1羽、元気よく飛び出し、歩きはじめた。このユーモラスなたつまきは、鶏の羽だけ抜いて鶏は生かし、箱に収めてハイさようなら。
そして理由はこうだ。たつまきがおこなう羽抜き作業は、渦の中心で気圧が下がった際に、羽の根元のなかの空気が膨張してつけ根がゆるみ、グラグラし始める。ちょうど抜ける前の虫歯のように。鶏がたつまきの中から逃げ出す前に、渦巻きの強風がグラグラしている羽を、サッと抜いてしまう。このように、自然界で起こる現象は、ちょっとみると簡単なようだが、人間がその真似をしてみて、そこではじめて巧妙な技に頭が下がる。私の知るかぎり、たつまきの原理を利用した鶏の羽抜機は、まだ発明されていない。
もうひとつ紹介しよう。「3年続けて同じ町が同じ日の同じ時間に襲われた」は同じカンザス州のコデルという小さな町で、1916、17、18年に起きた。いずれも5月20日の同時刻だった。それ以来、町ではこの日を「たつまきの日」としていつでも地下室に飛び込める用意をしているが・・・それ以降はたつまきはこの町を避けるように一度もやって来ない。確率では説明がつかない不思議な話である、と。
藤田の考え出したたつまきの強さを判定する「藤田スケール」はF0からF12まであるが、この本では発生確率が0.1%未満というここまでは「前例」のあるF5を紹介している。最大時3秒間の推定風速が秒速117m―142mで「住家は跡形もなく吹き飛ばされるし、立木の皮がはぎとられてしまったりする。自動車、列車などが持ち上げられて飛行し、とんでもないところまで飛ばされる。数トンもある物体がどこからともなく降ってくる。
Fスケールが増し、風速が強まると、ほんの短時間のうちに木が倒れたり、家が分解したりする。つまり、秒速30mくらいの風は、被害を起こすのに10秒も、またそれ以上もかかるが、100m級の風になると、ほんの数秒のうちに破壊作業を完了する。仮に新幹線の上にわが家をしばりつけて走ったら、何秒間で家が壊れてしまうだろうか?強風の起こす被害を目撃した人は「あっという間に被害が・・・」というような表現をする。その表現は正しい。地震でも雷でも、大きな被害を起こす自然は、悠長にはことを運ばない。壊そうと思ったらすぐに片付けてしまう。F4、F5級のたつまきがなぜアメリカに起こるのに日本では起きていないのかはいまのところわかっていないし、また将来絶対起こらないという保証はない、と警鐘を鳴らしている。
冒頭で「めずらしく出版社に問い合わせた」と書いたが、藤田は「下」では大火の際に発生し、大小さまざまな物体、すなわち人や車まで巻き上げる火事たつまきについて解説する予定で、関東大震災、シカゴの大火、アメリカの山火事などのときに生まれた「火の島」の教訓をたどってみたい。続いて、局地的には台風以上の破壊力をもつ台風たつまきにメスを入れ、上陸しなくても、沿岸の船や住民をおびやかす水上たつまきについても述べることとする、とあったから、ぜひ読みたいと思ったわけである。
たつまき研究について藤田は中学時代に見学に行った大分県の「青の洞門」の話を紹介している。禅海和尚という人が毎日朝早くからノミをふるい、30年の歳月を費やして一人で掘り抜いた。先生はその一念と忍耐力を礼賛したが、藤田少年は「私ならまず15年かかって穴掘り機を開発し、次の15年で穴を掘ります。そうすれば30年後には穴と穴掘り機の両方が残りますから」と反論して大目玉を食った。たつまき研究は丹念なデータ集めとその分析の両方が求められるからいつもそれを思い出す。データ集めは穴掘り機の開発みたいなものと形容するあたり、まさに「三つ子の魂百まで」の通りであると。
両方の爆心地を歩き回ったことで原爆症を発症するのではないかと終生、気にかけていたという藤田だったが幸い後遺症はなく、平成10年(1998)に「もしノーベル賞に気象学部門があったら」と惜しまれながら78歳の人生を終えた。『たつまき 下』は藤田の多忙などもあって出版されないまま<幻の企画>に終わったわけだが、今回読み直してみてもうひとつの理由を見つけた。すっかり英語での研究に慣れてしまって日本語で文章を書くのが苦手になったというのである。ひょっとして英文の草稿でも残されていないだろうかと思うのは私だけではないはずだがどうだろう。