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書斎の漂着本 (36)  蚤野久蔵 饒舌録② 

谷崎潤一郎の随筆集『饒舌録』(東京・改造社)に掲載された『「九月一日」前後のこと』の続きである。関東大震災の前夜、芦ノ湖畔の箱根ホテルに泊まった谷崎は「和室では仕事にならない」と睡眠薬を飲んでようやく眠ったところまで紹介した。

谷崎のイメージというと<文豪・谷崎>として紹介される写真のほとんどが着流しの和服姿のせいか、執筆も「和室で座卓に向かって」と思っていたが大違いだった。前回紹介したように「西洋流に椅子に着かないと書けない」ので箱根ホテルの和室には大いに閉口したわけだ。

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九月一日午前八時半、私は場所が変わったせいか、例になく早く眼を覚ました。何処のホテルへ泊っても朝の食堂へ出たことなどはめったにないのに、その日は珍しく、九時過ぎに一階の食堂へ降りた。食事が済むと、又三階へ上がったが、やっぱり座敷が気に入らないし、仕事が出来なければこうしていても間が抜けるので、いっそ小涌谷へ帰ろうと思った。私は直ぐに会計を命じ、十一時半に出る乗合自動車で湖畔を発した。

箱根ホテルは「箱根駅伝」の初日のゴール地点の200メートルほど手前=東京寄り=にある。当時はこのあたりが芦ノ湖観光の中心だったから乗合自動車もここから出発したのだろう。箱根の温泉街へ戻る道路はもちろん未舗装だったが、位置は現在と変わらないのでテレビの駅伝中継の「復路」のコースを辿っていく。

夜来の雨は上がりかかって、足の早い雲がちぎれちぎれに空を流れ、ときどきぱっと日が照って往来の水たまりが光った。元箱根へ来ると、自動車はほとんど満員になった。私は運転手の後ろの、一番前の席に腰掛け、私の横には葡萄牙(ポルトガル)人らしい色の黒い若い婦人が乗っていた。元箱根からは芦の湯に行くまで、道がしばらく上がりになる。そのあたりで、又ひとしきり細かい霧雨がざあツと来た。幾度も降ったり止んだりして、湿気を含んだ冷たい空気がひたひたと車の中を浸した。葡萄牙の婦人はうすいジョウゼットの服を着て、両腕を露わにしているので、これでは風邪をひくだろうにと、そんなことを思ったりした。その黒い、肉づきのいい腕には、じーツと見るとむく毛が沢山生えていて、一本一本の毛の先に、小さな白い水蒸気の玉が結ばれているのが、絹糸のようにきれいであった。

なぜ隣の婦人がポルトガル人だとわかったのかは書かれていないが、谷崎の観察眼は冴えわたる。「むく毛の先に、小さな白い水蒸気の玉が」というのは、今と違って夏の乗合自動車の窓は開け放たれていたから。「湿気を含んだ冷たい空気がひたひたと車の中を浸した」ので、「薄着とノースリーブでは風邪をひくだろうに」につながるわけです。

この婦人は芦の湯で降り、私の周囲は日本人の男子ばかりになった。そこを出てからは左側は高い崖、右側は深い谷に臨んだ曲がり角の多い路であった。この夏、道普請をしたばかりのところへ、前夜の豪雨で流されて、凹凸が激しく、自動車が非常に揺れる。雨はほとんど降っていないが、たまにガラス窓へ点滴があたり、裾の切れた銀の脚が空間に見える。車はグーと右へ曲がったかと思うと、忽ちグーと左へねぢる。私の眼の前には、活動写真の移動撮影を見る如く、山山谷谷の鳥瞰図が右から左へ、つぎの瞬間には左から右へ、急速度を以て繰り返し展開される。

横浜に住んだのは大正活劇という映画会社の仕事を始めることになったからと紹介した。「脚本部顧問」として『鮫人』や『芸術一家言』を発表したが「活動写真の移動撮影を見る如く」に谷崎自身の<カメラ・アイ>を見るようです。道路は急角度に曲がりながら下っていきます。

「降ろしてください!降ろしてください!」
その時後部に乗っていた独逸(ドイツ)人の一団の一人が叫んだ。
「こんな所で降ろせるものですか、ここは道普請をしたばかりで地盤が脆いんです。もう少し安全なところまで行きます」
私は運転手が一生懸命梶(ハンドル)を取りながら、怒鳴り返す声を聞いた。前方の地面にみみずの這うような裂け目が出来、それがずるずると伸びて行った。路の端が谷の方へ崩れ始めた。

「大地震――」この感じは、ゆっくりと私に意識に上った。私は除かに席に着いたまま巨人の手を以て引きちぎられるように揺らいでいる樹樹の梢を見た。森や峰が一塊りになって動くのがわかった。半丁程先で谷に行き当たる路の突角が、正に起重機の腕の如く上下していた。明治二十七年の記憶が、明瞭に私に甦った。いやあれどころか、これこそ安政程度の地震だ。咄嗟に私は「しめた」と思った。汽車か電車で遭遇したいと願っていた私の希望は、自動車に依って充たされたのだ。私は最初の一撃の来た瞬間を知らずに済んだのだ。

突然私の脳裏には昔の母の俤が浮かんだ。母が生きていたら、どんなに驚いただろうと思った。それから私は、横浜の家族の身の上を案じたが、此の地震は多分関東一円の地震であろう。そうだとすれば横浜よりも東京の方がやられている。横浜は比較的安全、殊にあの家は大丈夫だ。そうして家族は、祖母も、妻も、あゆ子もちょうど此の時刻は家に居るに違いない。ただ会えるのはいつの事やら――東京も、横浜も、小田原も、箱根も、東海道の沿道が悉く火になるとしたら、早くて半月、遅くてひと月の後であろう。

乗合自動車の運転手のすぐ後ろに座っていた谷崎は、自動車の揺れもあって大地震の<最初の一撃>には気付かなかった。後ろの席のドイツ人の団体のひとりの「降ろしてください!」という叫び声と運転手の「ここは地盤が弱いからもう少し先まで行く」という会話で大地震に巻き込まれたことがわかった。「路が正に起重機の腕の如く上下した」というのは9歳の時にまざまざと体験した「平らな路が、あたかも起重機の腕の如く棒立ちになり、向こうの端の人形町通りを、天へ向かって持ち上げると思う間もなく、今度は反対に深く深く沈下したという記憶」とが瞬時に重なった。

「除(しず)かに席に着いたまま」というのは武田信玄の風林火山の一節「その徐かなること林の如し」の、徐(しず)かなることと同じように「泰然として」とか「あわてないで」の意味で使っている。いつもならほんのちょっとした微震に逢っても、すぐに胸がドキドキして真っ青になり、じっとしていることができず、反射的に立ち上がって慌てふためくのが常だった。これは長じてもまったく同じで、「私のは、逃げるために立つのではなく、動揺を感じるのが恐ろしいから立つのであって、自分が体を動かしていれば幾分かごまかせるから」と分析していた。そうなると「電車か汽車に乗っている時に大地震に逢えば(最初の揺れには気付かないだろうから)いいのではないかという気持ちを持っていた」と告白していたから、今回は咄嗟に「しめた」と思った。自分でも滑稽とまで思う自身の条件反射もこんどは「まったく違った」と紹介したわけである。

自分の知り合いでこの地震で「瞬間に圧死したのは誰誰だろうか」と具体的に横浜のふたりの名前をあげているのは、この原稿がかなり後に書かれていることからも実際にそうした<不幸な想像>が的中したのかもしれない。

最初の激動がまだ続いている間に、これらの考えが稲妻のように私の頭を通り過ぎた。その時自動車は、五六丁のカーブを命がけで走って、やっと十坪ほどの平地のある地点で停まった。

残念ながら『「九月一日」前後のこと』はここで終わる。目次から『饒舌録』か『阪神見聞録』にでも書かれているかと探したがなかった。

そうなると私自身も興味にかられて以前、『蚤の目大歴史366日』用に集めた資料を引っ張り出した。谷崎は「関東大震災で生来の地震嫌いが高じて関西に居を移した」といわれるがどうだったのだろう。

9月1日:続き
乗り合わせた一行と坂下にあたる小涌谷へ向かったが途中の道路が崩れていて通れなかった。午後3時ごろ、小田原の大火が望見されその晩は野宿した。

9月2日:ようやく小涌谷ホテルにたどり着くが建物は被害を受けていたから宿泊客としては受け入れられず仮泊したか。

9月4日:小涌谷から箱根峠を越え三島から沼津に出て汽車で大阪へ向かう。

9月5日:大阪着。芦屋にいた旧友の伊藤甲子之助を頼る。大阪朝日に地震に関する「手記」発表。

東海道線は沼津以東が普通なのでこの間、船便で横浜に戻ることを画策するが伝手がなく、最終的に朝日新聞から船会社を紹介してもらう。

9月9日:神戸から「上海丸」で横浜へ戻る。船長は旧知の作家・今東光の父・今武平。

9月10日:東京・本郷西片町の今東光宅で避難していた家族と無事再会。横浜の自宅が類焼したことを知る。都内の友人宅を転々とするが首都圏での借家は無理とあきらめる。

9月20日:品川から「上海丸」で家族ぐるみで神戸へ。

9月27日:京都市上京区等持院中町の借家を見つける。

11月、東山三条の寺の塔頭に転居、12月、さらに兵庫六甲の苦楽園に転居。

ご覧のように谷崎は「首都圏では気に入った借家が当分は見つかりそうもない」ので関西に居を移したわけで単純に「地震嫌いだったから」ではなかったことがおわかりいただける筈だ。

収録されている作品の執筆順はこの『「九月一日」前後のこと』、『阪神見聞録』、『上海交友記』、『上海見聞録』、『饒舌録』の順である。『饒舌録』は交友のあった芥川龍之介の自殺を挟んでいるだけに研究者も多い。今回は関東大震災に絞って紹介したが、この大地震の前後で谷崎自身も作風も含めて大変身を遂げる。そういう意味でも古書店の店頭で何気なく手にしたこの本は「一冊で何度も楽しめる拾いもの」であったことは間違いない。

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