書斎の漂着本 (54) 蚤野久蔵 ほりだしもの
<反戦・抵抗の詩人>といわれた金子光晴の著作のなかではこの『ほりだしもの』がいちばん気に入っている。亡くなった昭和50年(1975)1月に大和書房から出版された。段ボールの外函にもある副題は「めでたき御代のおはなし」で、滝田ゆうが装画、平野甲賀が装本を担当しているのも珍しい。
翌2月には『金子光晴全集』が中央公論社から刊行開始になった。しかし体調不良を自覚した金子は4月に遺書をしたため、6月30日に気管支ぜんそくによる急性心不全で東京・武蔵野市吉祥寺本町の自宅で死去、79歳だった。だから『ほりだしもの』は最後の単行本といえる。もと文藝春秋の『話』という雑誌の編集長だった上田健二郎が手がけた『笑の泉』に昭和29年から40年まで毎号載せたものを集めている。
エッセイ集『絶望の時代』(光文社)では自らの生きた明治、大正、昭和を<絶望の時代>と評し「この百年は小さな日本人が力いっぱい、列強を相手に背のびをした時代、負けん気の日本人が西洋人の真似をしてけがをしたお伽話である。これまでの日本人の美点は、絶望しないことにあった。僕は、むしろ絶望してほしいのだ。絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。それほど、現代のすべての構造は、破滅的なのだ」と喝破している。「日本人の誇りなどたいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか」と結んだ反骨の文化人ぶりは若いころから徹底しており、戦争中も大方の詩人が戦争讃美に雪崩をうつ中で文学報国会にも非協力を貫いた。息子に召集令状が来たときには、どうしても納得いかないとして雨中に立たせたりして気管支カタルの発作を起こさせ、二度にわたって召集を免れさせた。こうした反戦精神は60~70年代、学生運動が華やかだった当時、過激派の連中からも愛された。
対して『ほりだしもの』は、「僕の文集の、裏ばなしをあつめたようなもので、おもしろいか、つまらないかは、その人の好きこのみで、すこしでも好みの合った人たちに読んでいただければ筆者のこのうえもない感謝、感激、雨霰(あられ)というところ。居ずまいを正してよむような性質のものではありませんから、お仕事が疲れたとき、中途半端で、時間のつかい途のないようなときに、ねむり薬代用によんでいただければ」というだけあって、当時の学生をはじめとする若者や市井の人々にとっては<きわめてあたりまえの>日常だったわけで、そういう意味でも風俗史の一端を伝えて余りある。
冒頭の『女学生』はこんな書き出しである。
僕らの青少年の時代には、感傷的な少女趣味の一時期がかならずあった。
むらさきの 袴さらさらホワイトリボン
行く先はどこ 上野 飛鳥山 向島
散れ散れ散るならさっと散れ チョイトネ
「むらさき節」という流行歌がはやったころのことで、あくがれの的は女学生だった。女学生風俗が花だったのは、まったくあのころにとどまるので、胸高なカシミヤの袴、ながい振袖、編上靴、ふくらかな前髪をとったおさげのローマむすび、はばのひろいリボンの蝶むすび、うす化粧。艶にして清純をうしなわぬ女学生姿は、わずかに宝塚女生徒の風俗にうけつがれたものの、そこにはもう自由溌剌と、時代のサン(燦)が欠けている。
僕はなまじいに文学のたしなみありとされたためか、友達からラブレターの代筆を頼まれることが多かった。薬局で薬紙に薬を包むように、同じ文言の手紙を十通も書かされて、うんざりすることもあった。僕の書いたレターを投げ込んだのが縁で、恋愛が成立ち、学校を途中で止めて彼女のところに入婿になり、子供もでき、めでたく栄えた友人の一人もある。だが、大方は、プラトニック・ラブだ。それも、仄かなものほど、お互いの感傷癖を満足させるのだ。
最後は金子のラブレター代筆でうまくいきそうになった友人の相手の女学生に横恋慕した学生がいることがわかる。その学生を待ち伏せして江戸川堤から川に放り込んだあとは、二人で浅草の白首を買って天丼を食べて・・・となる。「白首を買う」とは、などといちいち説明はしないが彼らの日常行動だったわけだ。
『江都八景・須崎の雨』は、友人の中条と洲崎遊郭に遊びに行き、堤防にいちばん近い妓楼の二階に上がったが、美人の方を彼に譲った手前、女相撲取りのような女ではどうしても気乗りがせず、しばらくしてから友人が「朝までいられる金を払ったのに帰るとはどういうわけだ」と渋るのをせきたてて、おりから降り出した大雨の中を下宿に戻った。
翌日、夕方にその友人が新聞を持って訪れた。三面の下の方に「洲崎の津波」という記事が載っており、堤防に近い娼家が三軒、津波にさらわれて女も客も死んでいた。たしかにその一軒は、昨夜、僕たちのあがった家だ。
「おかげで、命びろいをしたよ」
中条は、神妙な顔をしている。僕は、
「それみろ。虫がしらせたんだ」
と言いながら、あの肥った女もさらわれたのではないかとおもって哀れだった。
というのがオチである。ほかにも『昼あそび』、『三羽鳥』、『黒子の女王』、『珍相見』、『ホリダシモノ』などこのような艶っぽい話がどっさり。しかし編集子が、さすがに当代の読者諸氏には分からない言葉が多いと判断したためか、巻末に2ページにわたりくわしい「註」が付けられている。
あのなここな:この馬鹿野郎、不孝者とかいう時に使う。
うら山吹や仇名草:よその情事をうらやましがる時に使う。
にこごり大根の煮かた:端唄の文句。男女の仲がくっついてはなれないこと。
箒(ほうき)男:いくつもの芸者屋を渡り歩く客のこと。一軒に通いづめる客が上客。
かぶともしころも、なつちもいらねえ:「どうとでもなれ」とやけ半分に耽溺する。
それしやあがり:水商売出。
オノレ・ドーミエ:印象派前のフランスの風刺画家。
もちろん私とて、どれひとつも知らなかったので恥ずかしながら<新知見>でありました。
「跋」ではこう書く。
いまの方々からみれば、時代もずいぶんさかのぼり、腑におちないこと、妙なことも多いことと存じます。引き合いに出てくる人物などもいまからおもえば、へんなことだらけと思いますが、事実はみな、根拠あることで決して出鱈目ではありません。しかし、いまもうき世、あの頃もうき世で、僕らが息を吸ったり、吐いたりしているこの現実には、あまり変わりがないようです。ただ、戦前と戦後のちがいは、僕のような年になると、隠居というものがあって、隠居をすれば、相続人があれば、店をついだ息子からわずかながら生活費をもらって、ゆっくり盆栽でもいじって生きてゆけたものですが、いまはそうはまいりません。現に僕のように、この歳でコツコツものを書いてかせがなければ生きられないのです。貯金などあまりしたことのなかった僕のようなものは、あがったりです。そういう時代のちがいを考えて、よみすてて頂けば、ああ、そんなのん気な時代もあったのかと、働きもののみなさんのほっとするよすがになろうかと。
まずは、東西、東西と、すみずみまでの諸彦に、敬って白す。
同感、同感と拍手を送りたいところだが、もう一つ思い出した。他でもない、冒頭に紹介した表紙の滝田ゆうの装画を忘れていた。坊主刈りで着流しに下駄ばき姿でテレビや雑誌グラビアなどにしょっちゅう登場したのもなつかしい。滝田作品は<ふきだし>の挿絵にその人物の思いや考えを表したのがユニークだった。こちらの女性は「箱枕」だから、脱ぎ捨てているのは和服と長襦袢なのだろうか。何を思っているのだろう。それにしても裸で窓の外を向くというのは何と大胆な・・・。
「向こう向きなので裏表紙のほうじゃないのか!」と思われる方もあろうから表紙の両面を<念のため>紹介しておく。
そういう次第にて「くれぐれもお疑いなきように」ということで本日はこれまで。