書斎の漂着本(77)蚤野久蔵 筑豊炭鉱絵巻
4年前、山本作兵衛翁が残した「筑豊の炭鉱画」がわが国初めてのユネスコの世界記憶遺産に選ばれたときはうれしかった。『筑豊炭鉱絵巻』(葦書房、昭和52年)の『ヤマの暮らし』を持っていたからである。たしか出張の合間にのぞいた小倉の古書店で見つけたのではなかったか。ご覧の表紙がおもしろそうだったので手に取り、パラ見=パラパラと見ただけで購入した。晴れて世界記憶遺産になるとは。<先見の明>というのはオーバーだが、それが公式に証明されたような気分だったからかもしれない。
「やい、てめえ!」という声が聞こえそうなほど殺気立ったこのふたりは決闘の前に刺青を見せ合っているわけではない。あくまで刺青の図柄の説明だとか。気の荒いヤマの男たちに喧嘩はつきものだった。明治時代には日本刀を抜いての切り合いが日常茶飯事だった。対立グループが3日続きでやり合い数十人の死傷者を出したこともある。「刃(やいば)も凍る冬の寒中でも喧嘩するときはすぐ裸になるのがヤマ人の癖、それは体の自由もさることながらイレズミを見せたいからである」と書く。
山本翁は明治25年(1892)、遠賀川の川舟船頭の次男として福岡県笠松村(現・飯塚市)に生まれた。尋常小学校に通ったが鉄道の開通で父が家業の船頭に見切りをつけ村内の炭鉱の採炭夫になったので、兄と二人でその仕事を手伝ったり、弟妹の子守りに追われたりで長期欠席になり、4年生を再学して卒業証書をもらった。小学校では図画の授業はなかったが子守りの合間に絵を描いた。小遣いで買った西洋紙を小さく切って綴じ、源平合戦などを絵本にして近所の子供に一冊5厘で売り、紙やおやつを買った。高等小学校では図画の授業で描いた写生が先生にほめられ全生徒に見せてもらったのが、わずか80日間だけの通学で授業料未納により続けられなくなったなかで唯一の楽しい想い出になった。
父親を手伝い7歳で初入坑、以後、50年以上にわたり筑豊各地の中小炭鉱を転々とした。本格的に絵を再開したのは近くの閉山炭鉱の夜警宿直員時代で、60代になってからだった。「ヤマは消えゆく、筑豊524のボタ山は残る。私も余白は少ないが孫たちにヤマの生活やヤマの作業、人情を描き残したいと思い立った。文章で書くのが手っ取り早いが、年数がたつと読みもせず掃除のときに捨てられるかもしれず、絵であればちょっと見ただけでも分かるのでそうした」と語っている。数百枚の絵と大学ノート6冊の記録「作兵衛ノート」を残し、昭和59年(1984)老衰のため92歳で逝去した。
明治の筑豊のヤマでは浴場は男女混浴だった。壁に「告 風呂内で石鹸使ふ事 放歌高聲を厳禁」と貼ってあるが、そんなことはお構いなしである。
「浴槽内で石鹸を使うからアイガメ(藍甕)のように濁る。タオルは和手拭いで黒ずんでいた。(それで)鼻の孔を掃除するので黒班絣の模様になっていた。石炭のかたまりで汁が目に入ると痛んで赤くなった」というのが説明。しかも藍色なのは湯ではなく汁と書いているからこれでもまだマシに描かれているのだろうか。
炭鉱は地中深いところでの死と隣り合わせの危険な職場だったから多くの「忌ごと」を書き残している。「坑内で笛を吹奏すること、口笛は特に悪し」:ヤマの神さんは音楽が大好き、なかでも笛の音が特に好きだから、その音にあこがれて恍惚となり給い、大切な落盤防止などすべての災害を未然に防いでおられるのに<隙>ができる。「拍手すること」:もしそんなことをすればヤマの神さんが何の祈願をいるのかを聞こうとして、これまたうっかり天井を支えている手を緩めるから。またぱちぱちという音は支柱が異常な圧力で裂け始めるのに似る予兆を聞き逃す。「頬かむりをすること」:両耳を覆うから危険を知らせる音が聞こえにくい。「下駄をはくこと」:完全な足拵えをしていても転倒して負傷することもあるので下駄などもってのほか。「花類をかざること」:葬祭の際の仏事に通じるから。他にも「去る」に通じる、サル、猿。墓穴に通じる穴や、穴に入る、マブなどは嫌われた言葉のタブー。さらに赤不浄=女性の生理や、黒不浄=親戚に不幸があった場合。なかには「悪夢を見た」、「朝カラスが鳴いたから」といって休む坑夫もいた。しかし翁は、単にずる休みというのではなく、誰であっても不安があったら作業に集中できないから、と理解を示している。
迷信といえば「ヤマと狐」という一枚を、明治33年のある夜の珍事として紹介する。
ガス爆発で火傷して重体になった坑夫が自宅で療養していた。ある夜、突然大勢の見舞客が医師二人を同行してどやどやと訪れた。総勢20人、なかには幼児を抱いているのも数人いた。丁寧なお悔やみを言うと医師たちはそろそろと包帯を解いて治療にかかった。患者はときどき悲鳴をあげたが見舞客は「直るのじゃから少しは我慢しなさい」と言い、医師はかまわず皮を剥がしていく。長くかかって坑夫を丸裸にすると東の空が明けないうちに全員が煙のごとく消え去った。女房が夫の異常に気付いた時はすでに遅く、その身体は氷のように冷え既に息絶えていた。女房は看護疲れでうつらうつらしていたうえに目が悪くランプは暗い。こうした弱みに付け込んだ<悪狐のしわざ>だった。
「西欧では二十世紀の文明開化をうたっている頃。ヤマの住宅が密集しているところでこんな怪奇な事件が起きるとはちょっと眉唾ものだが、実際にあったことだから致し方ない。狐は火傷の皮膚などを好むという」と書いている。
ガスの噴出が多い炭鉱では毎月のように局所的な小爆発が絶えず、数名の犠牲者が出た。しかも電池式の安全燈に替わるまでは裸火のカンテラだったから「火を担いで油槽に飛び込むようなもの」とされていた。<生き地獄への人身御供>であるからいつなんどき、落盤やガス爆発、出水、炭車暴走などに巻き込まれるかもわからない。まさに危険と隣り合わせの毎日だけに死の恐怖が常にまとわりつき多くの迷信が生まれた。
一方で「ノラクラ坑夫」に二種類あるという。作業能率をあげ得る技術を持ちながら休みの多い者。もうひとつはあまり仕事もできず、入坑率はかなりあっても能率を上げることはなく、すぐにノソン=早昇降する者である。この種のスカブラ坑夫はつまり下るときは遅く、上がるときは早いので「ウサギ坑夫」の異名があった。ウサギは前足が短く上り坂を駆けるのが早いからであろう、と解説する。なるほど。「ウサギ坑夫」はなかなかおもしろいが、山本翁はいまや死語になったスカブラ坑夫のほうには触れていない。
スカブラ坑夫のスカブラは筑豊方言で、ノラクラ、怠け者ではあるが、それであってもなぜか許されるというどこか好意的なニュアンスがあるようだ。同じ福岡県宗像市にこの語を店名にした古書店がある。本の注文の際のメールに「スカブラは知っていますが、店名にされた理由はなぜですか」と尋ねたことがある。そうしたら「北海道の炭鉱で働いたことのある先代がつけました。でもご存知ないお客さんからはノルウェ―語の波状雪(シュカブラ)ですかとか、お医者さんからはラテン語のスカプラ(肩甲骨)からですかと言われたこともありました。たしか先代が作った栞があったはずですので同封しておきます」という返事が返ってきた。この本で知ったスカブラは、二枚の栞というささやかな<記憶遺産>になりました。