新・気まぐれ読書日記(34) 石山文也 カサンドラ
新刊コーナーに並んだ桑原水菜の『カサンドラ』(角川書店)を手にしたのは題名からだ。表紙には客船らしい船が描かれ、帯には「傑作!船上サスペンス―絶海の船上で繰り広げられる、男たちの熱き闘い!」とあるから海洋が舞台なのは明白なのに、頭に浮かんだのはヨーロッパの山岳地帯を走る国際特急列車を舞台にしたあのパニックサスペンス映画『カサンドラ・クロス』(昭和51年、1976)だった。
こう書き始めると、まさに<脱線覚悟>、おっと脱線なんて不吉な用語は鉄道ファンに叱られそうだが、頭に浮かんだ共通の「カサンドラ」が本の購入動機になったのだから勘弁してほしい。というわけで最初に映画のほうを紹介しておく。
急患を装ってジュネーブの国際保健機構に潜入したゲリラが銃撃戦の末、逃走した1人がパリ、アムステルダム経由ストックフォルム行の国際列車に紛れ込む。感染性の極めて強い細菌に感染した疑いもあり、事件の発覚と感染の拡大を恐れた保健機構のアメリカセクション情報部員のマッケンジー大佐(バート・ランカスター)は、千人の乗客ごと列車を闇に葬ることを計画する。列車の爆破計画を察知して乗客を救出しようと奮闘する神経外科医のチェンバレン博士(リチャード・ハリス)、博士の元妻で女流作家のジェニファー(ソフィア・ローレン)らが乗っている。列車は刻一刻、廃線になったポーランドのカサンドラ・クロス鉄橋へと進んでいく。英・独・伊の合作は最後まで息をつかせない迫力はさすがで、私、ロードショーだけでなく、ビデオでも観ました。結末は分かっているのに毎回、手に汗握って。
かくして脳内に「カサンドラ・クロス」のイメージが残像のように残った次第。どういう意味なのか。帯をそのまま引用させてもらうと「カサンドラ=人名・神話:トロイア王の娘。国家の滅亡を予言したが、太陽神アポロの呪いにより、その予言は誰にも聞き入れられなかった」。では表紙の客船の名前が「カサンドラ」なのか?いやいや、そんな(不吉な)ことはありません。
昭和28年(1953)夏、旧日本海軍の空母を<改装>したアメリカ船籍の豪華客船は、ギリシャ神話の“光の女神”からとった「アグライア号」という船名で横浜港大桟橋に接岸していた。全長170メートル、全幅22メートル、総トン数1万5千トン、主機関は非公開とされていたが最高速力は30ノット、時速に換算すると55.5キロメートルとなる。白亜の美しい客船は仙台港を経由して横浜港と北海道・函館港を往復する3泊4日のお披露目航海のためである。前身は昭和13年(1938)に建造された大型船「さんぱうろ丸」で、有事には空母などに改造できるように設計され、主にブラジル・サンパウロへの南米航路に就航していた。徴用後は階段状の優美な上部構造を撤去して無骨な飛行甲板を載せ、空母「海鷲(かいしゅう)」と改名されていた。多くの徴用船が米潜水艦の雷撃を受けて、ことごとく海の底に沈んでいったなか、数少ない生き残りとして、終戦で米軍に接収された。その後、占領下の佐世保工廠のドックで船体の改造に2年、その後、3年以上をかけてエンジンや操舵設備、係留設備等を取りつける艤装(ぎそう)を終えた。搭載した新型エンジンは極秘工事で、船会社も「これは船の革命だ」と自慢するだけあってこの航海は実力を披露する格好の機会だった。
招待客には通商産業相で民主自由党所属の衆議院議員・児波源蔵、大蔵官僚・中平康隆、商社出身で民政党の衆議院議員・要真、大手重電メーカー丸菱電機社長・祖父江仙三、プラズマ研究の第一人者で物理学者の大学教授・波照間秀樹、毎経日報社長・醍醐万作と懐刀の専務・合田始、GHQ諜報部所属マクレガー中佐、船主セブンシーラインズのオーサー社長、船の新型エンジンを設計したバークレイ研究所のナギノ博士、そのエンジンを製造したエレクトリック・バーナード社のジム・ストーン社長らが乗船していた。児波の警護役が民間護衛会社から派遣されたことになっている主人公の入江秀作で、陸軍中野学校出身。戦時中は上海で諜報活動に従事していた。前年、警察予備隊から改変・発足した国の保安機関・保安隊の情報部にあたる「2部」に所属しているが軍歴を隠して何とか乗り込んだ上海からの引揚船で瀕死の重傷を負っていた同じ諜報員仲間の戦友、佐賀英夫を佐世保に着く直前で失った。入江の真の任務はソ連側スパイに流出しかけている機密情報の流出阻止と持ち出そうとした者の<抹殺>だった。機密情報の暗号名は“カサンドラ”、はたして入江はその流出を防げるのか。
当面の課題はこの船に乗っているという、もうひとりの潜入保安官―暗号名“マルヤ”と接触することだったが翌朝、波照間教授が自身の一等船室で腹部を刺されて死んでいるのをお湯の入れ替えに来たキャビンボーイが見つけた。死因は失血死。同じ日の昼過ぎには上部貨物デッキでマクレガー中佐がピストルによって眉間を撃ち抜かれて殺されているのが発見された。14時30分、船は濃霧に包まれた仙台沖に投錨。接舷した海上保安庁の巡視船に二人の遺体を預ける手はずだったが、タラップから上って来た保安官は「赤雹梯団(せきはくていだん)」を名乗る武装集団で、ブリッジを占拠したあと、目的地を変更してベーリング海峡を経て北極海沿いにあるソ連の軍港、アルハンゲリスクに向かうよう命令した。ところがこんどは船を奪還してアメリカに向かおうとする集団が現れて壮絶な諜報戦と血みどろの死闘が繰り返される。いったい誰が敵で、誰が味方なのか、しかも混乱のさなかに船内に火災が発生する。鳴り続ける非常ベル、やむなく総員退船となるのか、乗客らの運命は。
登場人物の名前をわざわざ書いたのはいささか意味がある。この年は終戦から8年、人々の多くが辛くも生き抜いた過酷な戦争を引きずっていた。野望や<密命>を帯びてこの船に乗っているかもしれない。船には船長以下、多くの乗組員や乗客サービスにあたるスタッフもいるからその一部を紹介したに過ぎない。もちろんミステリーだからこの先は「読んでのお楽しみ」ということにさせてもらうが、“カサンドラ”が何を指すのかがなかなか明らかにされないので、記憶に残る冒頭の映画のシーンと同じく久し振りに<手に汗握って>読了した。「俺はこの国のひとたちを信じたい。日本には日本の、日本だからこそ選べる道があるって!」残された入江がつぶやいた言葉である。
ではまた