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私の手塚治虫 第23回  峯島正行

私の手塚治虫(23)
夢のアニメ制作
峯島正行

「アニメーション」への開眼

前章まで、手塚治虫の週刊漫画サンデー掲載関係の、成人漫画について主として論じてきたが、手塚は漫画サンデーに書かなくなってからも、成人漫画を描き続けた。
成人漫画は、手塚の業績の三大分野の一つ、と言える大業績と思っている。成人漫画を描き始めたころはすでに手塚は、児童漫画の世界で王者の地位に君臨していた。戦争直後の昭和二二年、単行本で、長編ストーリー漫画、「新宝島」を描き下ろしの単行本で出したところが、これが爆発的なベストセラーとなり、以来、「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」など多くのストーリー漫画の大作を発表、忽ちのうちに児童漫画の第一人者になった。
手塚の前にも児童漫画には、ストーリー漫画は、無きにしも有らずであったが、話が単純なものだったし、漫画と言えば一コマか四コマのお笑い漫画が、主流であった。
そのような漫画界に、小説のように複雑な物語を、手塚が戦時中から見てきた、ドイツ映画の手法を基にして、変化と迫力のあるコマ運びで、ストーリー漫画を描いてきた。この手塚が発明した漫画手法は従来なかった波乱万丈な物語、複雑な人間関係の表現を可能にした。
さらに手塚は医学博士にもなった、豊富な科学知識を利用して、ストーリー漫画にSF的世界をも持ち込み、新たな読者をひきつけた。こういう手塚的漫画はすっかり定着して、児童漫画の大きな潮流となった。
こうして学生の身でありながら、すでに大流行作家となり、大学卒業を控えて、将来医者になるか、そのまま漫画家で行くか大いに悩み、母親にも相談したという。母の自分のやりたい方を選びなさいという言に従って、好きな漫画家で通したという。
そして、医学博士の資格もたったことは既に述べたとおりである。

この児童漫画、成人漫画の他のもう一つの手塚の重大分野は、アニメーションの業績である。アニメーションは成人漫画と殆ど同時代に始められ、他の二大分野と並行して、大業績を上げたのである。そこから手塚は超人といわれた。
だが、後年アニメの制作会社、「虫プロ」の経営不振で、大変な苦労をなめなければならなかった。それが、手塚の唯一の、人生の躓きとなった。それについては後述する。

手塚のアニメーションへの開眼は早かった。小学生の頃、お父さんが、9ミリ半という、古い型の映写機を持っていて、百貨店で、家庭用にマンガフイルムを買ってきては、映してみせてくれた。正月が来ると町の映画館はマンガ映画大会を催した。外国の漫画、ミッキーマウス、ポパイ、ベティーちゃんといったアメリカンコミックのスターたちが登場する、映画を二十本本ほどならべて、上映した。
「お正月が来ると、オーバーを着て電車に乗って、デパートの食堂でごはんを食べて、マンガ大会を見るのが楽しみでたまりませんでした」(手束治虫全史・平成一〇年、秋田書店刊)と手塚は述懐している。
戦争に入ると、「くもとちゅうりっぷ」「桃太郎・海の神兵」などという傑作が公開され、手塚はそれに強くひかれた。
「僕は空襲の最中、ぼろぼろの映画館でこの『桃太郎・海の神兵』を見て感激して思わず泣いてしまった」(前掲書)と書き残している。
戦争が終わってから、人に借りた古いカメラで、漫画映画らしきものを自己流で作ったりしていたという。
戦後になると、外国の傑作漫画映画が輸入されるようになった。そのすべてを手塚は、映画館に通って見た。手塚は次のように書く。
「そのうちに、どしどし外国の立派な漫画映画が入ってきました。最初に見たのはフライシャーの『ガリバー旅行記』で次はソビエトの『私の仔馬』でした。
『ガリバー旅行記』は30回『私の仔馬』は50回も見てしまいました。しかし一番多く見たのは「バンビ」で朝から晩まで映画館に座っていました。
おなかがへっても、あんパンをかじり、夜になると、すぐ横のガードの下にある木賃宿にとまって、ひと晩中シラミにかまれながら、あくる朝、また映画館にとびこみました。全部で何回見たか覚えておりませんが、百三十回は見たと思います」(前掲書)と述べているが驚くべき、熱の入れようといえよう。
漫画映画を見るたびに、手塚は必ず将来、アニメーションを造ることを誓うのであった。
後年、手塚は「自分にとっては、漫画は本妻、アニメは愛人だった」とジョークを述べているが、まさに、愛人を持つには時間と労力と金がかかることにおいては、本妻を一人守るより何十倍になるかわからない位のものである。そして愛人のためには、身を滅ぼすことにもなりかねない。手塚は、まさにアニメという愛人のために、身は累卵の危機に
見舞われることになるのである。
青年の手塚に、そんな予測は出来る筈もない。しかし、アニメ制作には、金と労力がものすごくかかることは、手塚も予測できていた。
将来にアニメの夢を見て、図らずも当たりに当たっていた漫画に精を出したのであった。彼は、すでにアニメーションを制作をしていた横山隆一のオトギプロを訪ねて、アニメ制作の現場に触れていた。

莫大な漫画の年収

やがて経済的な面からも、アニメに取り組めるようになっていった。
それは漫画の収入が莫大になり、余裕が出来たからである。すでに昭和29年度において、関西長者番付の画家の部で、トップとなった。当時の金で、年収二百十七万円。週刊朝日で「知られざる200万円長者」として世間に紹介された。   そして、昭和三六年度には、日本全国の長者番付の画家、漫画家の部で、トップとなった。このような収入の拡大が、手塚をして、動画作成に導いて行くのであった。
横山隆一が、鎌倉の自宅に作った、「オトギプロ」では最初に「おんぶお化け」という作品を完成した。その試写会に招待されて、改めてアニメの魅力に取りつかれた。その完成祝賀会の会場で、横山におめでとうの挨拶をすると、横山から、「手塚君、君もそろそろマンガ映画を造ったら」とはっぱをかけられた。
「まだちょっと早い気がいたしまして」
と謙遜はしてみたものの、自分もいよいよ動画に乗り出す機会が近づいたとおもった、という。それから原稿料の収入をためて、動画作成の準備を始めた。
久里洋二、真鍋博、柳原良平の3人の当代を代表するイラストライターが集まって、「三人のアニメーションの会」というものをつくり、作品の発表をするという通知が手塚のところにも舞い込んだ。この三人の会の作品は八ミリの小品であった。確かに小品であるが、実験的意欲に燃えて作っていることが、よく分るような作品だった。
「あんたが作るのを待ってるぜ」
と久里洋二に肩を叩かれた、手塚はにやりと笑って、胸を叩いて、「もうすぐやりますよ」と言い返したという。実はその頃、商業動画の先駆をなした、東映動画の仕事を内緒でやっていたのであった。
昭和三十三年東映動画から頼まれ、手塚の作品「ぼくの孫悟空」を動画化したいのだが協力してくれと頼まれ、生まれて初めて、組織の一員として、動画作りに励んでいたのであった。手塚は組織の協力体制ということを学び取りながら、長編動画「西遊記」の構成の責任を果たした。
「西遊記」が好評だったので、次の作品「シンドバットの冒険」の構成を受け持つことになった。船の話なので、「どくとるマンボウ」の作者、北杜夫と共作した。

新築の事務所に尋ねてきた青年

「ぼつぼつ気分を一新して、念願の動画に手を出す時期が来たと思った。
家内に向かって
『これからおれは、大変な事業を始めるので、成功してもしなくても、うちはひどい窮乏生活に見舞われるが、我慢してくれ』
とくぎを刺しておくと、家内はダモクレスのような顔をした。もっとも僕が事業に失敗をしたとしても、医者に戻って商売をやり直せ、と女房がいう気遣いはまずなかった。家内は、医者の診察室の匂いが頗る嫌いで、ぼくの前にいい見合いの相手があったのだが、医者だと知って辞めてしまったくらいである」(ぼくはマンガ家・1979年、大和書房)   と冗談をまじえて、述べている。
練馬の西武線、富士見台に、四百坪の土地を手に入れ、スタジオ兼住宅を建て、中古ながら、アニメ用のカメラを買い、庭の隅の小屋を建て、そこに収めて、いざという日に備えた。
その新築の白亜の家に移り、漫画の仕事場とし、アニメ制作の準備を始めた。
富士見台と言えば、今位置は住宅地としてにぎわっているが、当時はまだ練馬区谷原町と言い、全くの田園地帯で、富士見丘の駅から、暫く行くと雑木林の向こうに、くっきりと富士山が浮かび、駅名を富士見ヶ丘と名付けられたのも頷ける光景であった。
手塚家の新築の家の周りは畑で、家の前は牧場で、牛がのそのそと歩き。「モーッ」と泣いていた。昭和三五年一〇月の、ある日そこに、編集者でもないらしい一人の青年が、訪ねて来た。
横山隆一のオトギプロのアニメーターをしていた、山本暎一という青年だった。彼は、完璧な芸術的なアニメーションの制作を見ざし、大衆的な作品を造ろうとしない横山のアニメ制作に飽き足らず、もっと広い観客を喜ばせる娯楽的な作品を作りたいと念願し、横山の庇護のもとにあった境遇を脱却して、娯楽アニメの制作を目指し新たな勉強をしていたところ、週刊誌で、手塚がアニメの制作に乗り出す、と書かれてあったので、手塚なら、自分の希望に沿った作品を作るのじゃないかと思い、矢も盾もたまらずとにかくやってきたのであった。         彼は後年、アニメの演出家として鳴らす男だが、このころはほんの白面の青年だった。後年、自著「虫プロ興亡記」(一九八九年、新潮社)で、彼は次のように記している。
「畠の真ん中に、二階建ての、白い、四角い、コンクリート作りのモダーンな建物が、ドーンと秋の陽を跳ね返し、輝いていた。まるで城館だ。度肝を抜かれ足がすくんだ」
勇気を鼓して、彼は重い門の扉を押して、やっとの思いで、玄関までたどりつき、ベルを鳴らした。すると端正な顔立ちの手塚夫人がドアーを開けた。
「僕は横山隆一先生のオトギプロにいたものですが、先生がアニメーションを始められると聞いたものですから、先生につかって頂けないかと思ってお願いにあがったんですが…」としどろもどろにいった。
「お約束ですか」と夫人は聞く。
「いいえ」
やっぱりだめか。絶望感みたいなものが心に沸く。
「ちょっとお待ちになって」
夫人はそういうと、奥に去って行った。やがて、手塚の弟子らしい男が
「どうぞ上がってください」
と案内に立った。その男は絵具が付いたズボンを汚らしくはいていた。この男が漫画家として後年大成した、古谷三敏だった。
応接間で待たされること三〇分、ガチャリと、ノブを回して、手塚が入ってきた。
「いや、どうもどうも」
とベレー帽の上から頭をかきながら、手塚調で挨拶した。
山本は、へえ手塚ってこんな若い人なのか、と一瞬思った。この時手塚はまだ三一歳であった。テーブルの上の缶入りのピースを一本、山本にとらせ、自分も、一本とって、お互いの煙草に火を点けた。二年余も働いたオトギプロをなぜやめたのかという話に入っていった。
「隆一先生は『おんぶお化け』という素晴らしい作品があるんですが、これを習作だからと言いて、一般には見せないんですよ。そこが淋しいんです。出来たものは大勢の人見せたいんです。大勢の人に見てもらうのには、芸術では大衆受けしないなら、芸術でなくてもいいとおもうんです」
「そういう気持ちわかりますよ」
「それでさんざん悩んだんですが、やっぱり納得するアニメ作りをやりたいんです」
「その気持ちわかります」
「それで先生がアニメーション映画をおやりになることを知りましたが、先生ならきっと大衆につながるものをお作りになると思って…」
「そうでしたか、しかし、やはり芸術的なアニメは作るべきです。僕がアニメをやるのも実験的な芸術作品をつくるためでして。そうでなくては、我々は作家じゃなくなります。
ただアニメを作るのにはお金がかかるし、実験作品はあまり売れないからそればっかりじゃ、制作活動が尻つぼみになってしまいますから。ぼくは実験作品を作る一方で、大衆娯楽作品を造ります。こちらは商品ですから、お客さんのくるような絶対面白い作品を作って、うんとヒットさせて、お金が儲かるようにしたいんです。そのお金で芸術作品を作るんです。」
やっぱり手塚だ、と山本は痛感する。
「そのために東映動画で技術の勉強もしたし、オトギプロにも行って、横山さんからいろいろ教えてもらったんです。この家を建てた時も隣へ、将来、スタヂオ建設する土地も一緒に買いましてね、それでまあ、ぼつぼつやれるところまで来たんですが…」
と手塚は若い青年に情熱の一端をほどばしらせた。
「先生、ぼくを雇ってください。お願いです」
青年はそう叫んでいた。
以上は前出、「山本映一著、虫プロ興亡記」により、描いたものだが、多くの虫プロの歴史をえがいた書籍があるが、その中で虫プロ草創期を描いたものでは、同書が一番、客観的で詳しく、手塚にインチメイトをもって書かれていると思われる。以下、山本の手塚プロ動画部入社の経緯について、同書に拠って、描いてゆく。それによって、当時の手塚の心境、がよく分ると思うからである

アニメーター並みの厚遇

その年が明けて、翌年昭和三六年の春手塚は、東映動画のベテランアニメーターであった坂本雄作を、手塚プロに入社させた。ベテランと言っても、まだ二六七の青年だった。それだけ、アニメは若い世代のものだった。
ついで広川和幸という青年を雇った。手塚フアン倶楽部にいた青年で、その春高校を出たばかりで、撮影担当を志望していた。もう一人、渡辺という女性で、CMプロダクションで、アニメの仕上げをやっていた人だった。
五月になって手塚は、山本を電報で呼び寄せた。まだ各戸に電話がひれていない時代であった。電報を受け取った山本が、手塚プロに電話すると、マネージャーの今井と称する人が電話に出て、話し合い六月の初め、初出勤が決まった。  その日出勤すると、四〇歳位に見える
痩せた猫背の今井が、待っていた。
「よろしくお願いいたします」
と頭を下げると、
「「もう、ここに来たとき呼び鈴押すことないです、他所の人ではないんですから」
よその人じゃないという言葉が,山本を痺れさせた。そしてすぐ月給の話になった。
「三万円でどうでしょう」
オトギプロで彼がもらっていた金の二倍ではないか」
当時アニメーターは特別の技能職とされ、相当に高級であったのだ。山本をアニメーターと認めての給料だった。
「じつは、すでに東映動画から坂本さんというベテランアニメーターが来てましてね、その人とのバランスがあるのでね、ご不満かも知れませんが」
「いえ、十分です」
と答えていた。」
「それは有難い。お昼になったら食事はみんなと外に食べに行きましょう。食事の代金は手塚の方で出しますので。それから三時には、おやつが出ます。おやつを食べたら、どうぞお帰り下さい。」

「え、えっ」
「出勤も当分は一日おきにしています」
そのようにアニメ制作にかかわる人を大事に扱ったのは、手塚が動画制作の夢と情熱をかけている証拠でもある。その厚遇ぶりにあっけにとられている山本に、
「じゃ先生に会って頂きましょうか」今井が仕事部屋のドアーをあける。とたんにガガガーンと物凄く大きな音で、音楽が響き渡っている。そこは一,二階吹き抜けの長方形の大きな部屋だった。部屋の片方の壁に、ステレオのスピーカーが植え込まれていて、交響曲の轟音は、そこから発せられているらしい。
今井が説明するのには、音楽好きな手塚はそのメロデーに載って仕事をすると能率が上がるといっていること、ボリュームを上げているのは、手塚がこのところ、徹夜続きで疲れているので、その眠気覚ましのためだ、という。
そのスピーカーの前に机が並び、そこに五,六名ほどの男女の若者が、漫画の原稿に消しゴムを掛けたり、墨やホワイトをぬったりしていた。つまり彼らは漫画のアシスタントであった。
彼等の頭の上はバルコニーのような二階になっていた。そこに手塚の机があり、手塚が背を向けて、漫画原稿を書いていた。
その背中に向けて今井が叫ぶ。
「先生!山本さんが来ました」
と叫ぶ。手塚は、ペンをすすめながら、
「はーい、ちょっと待って」と返事する。やがて原稿が一ページ分出来あがると、バルコニーの手すりに結び付けられた紐の先にクリップで止め、すとんとと落すと、丁度アシスタントたちの鼻先にぶら下がるように紐が調節されている。するとアシスタントが手を伸ばし、それを受け取る。
そこで手塚が立ち上がり、プレイヤーのボリュームを落とし、「いやーどうも、どうも」と降りてくる。
挨拶が終わると「悪いんだけど、今日は漫画の方が忙しいんでこれで失礼します。これからのことは、今井が心得ておりますから,ご相談ください」とまたベレー帽をかぶり直し机に向うのであった。
そのあと、山本にアシスタントを紹介されたが、轟音に消されて、名前など聞き取れなかった。部屋を出ると、轟音が止み、普通の世界に戻った。
手塚はアニメを始める決意をしても、漫画の仕事は増える一方のようであった。人気実力ナンバーワンの作家を出版社が、離しはしなかった。週刊の児童雑誌が発行されるに至って、仕事は膨張する一方だったのだ。
今井は各出版社の編集者が、屯して待っている部屋をも案内した。開け放たれた玄関お近くの部屋に、七、八人の男性が、花札を引いたり、寝転がって本を読んだりして、原稿の出来上がりを待っていた。

動画部の発足

さて最後に今井は玄関の上の二階の八帖ほどの部屋に連れて行った。そこで坂本らアニメのために入社した三人の人がいた。この人たちが、アニメの担当者だった。
どうやら山本を含めた四人が手塚アニメの草創のメンバーのようであった。
「宜しくお願いします」と山本は三人に頭を下げた。
「それで仕事は、何をすればいいんですか」
と今井に聞くと、
「まだ何もしなくていいんです。雑誌の仕事で、ガタガタしているうちは、手塚は手が離せませんしね、皆さんお机などが来るまでは、もうちょっと時間がかかりますので、それまでは何も仕事はしなくていいのです」
という話であった。
その日は三時に手塚の好物だというアイスキャンデーがおやつに出て、その日は終わった。

六月の半ばになって、やっと机が入った。それを手塚プロの二階の部屋に入れて、坂本、山本たちはそれぞれの机に着いた。手塚は同時に、手塚プロを一階の漫画部と二階の動画部に分けて、動画制作に乗り出すことにした。
その動画部に、七月になると、坂本とと同じ芸大で、二年後輩、やはり東映動画にいたアニメーター,紺野修司が入ってきた。さらにキャラクター・デザイナーとして、同じく芸大での新井某が入り、八月には、すぐ杉井儀三郎というアニメーターが参加した。坂本に言わせると、東映動画で天才といわれたアニメーターだったという。山本と同じく高校だけしか卒業していなかったが、後年「銀河鉄道の夜」「源氏物語」などを監督した。

こうして集まってきた動画部の人たちに対する待遇も、漫画部の人とは違っていたという。
「漫画部のアシスタントは、あくまでも、手塚という人格の一部にすぎない文字通りの助手だ。アニメのスタッフの方は助手ではなく、それぞれ個性を持った芸術家で、手塚と共同の仕事をする作家の集団という扱いだった」
と、山本は前掲書に書いている。
手塚が、出版社の編集者相手に闘争を繰り広げながら、徹夜をして創り出した漫画による稼ぎを、ドンブリ勘定式に、
アニメ関係の人の給料やその他に惜しげもなく、使っていたわけである。まだ動画部が、一銭の稼ぎもないうちにである。
それだけ、手塚の動画にたいする憧れと熱意が、高かったという証拠でもあろう。

手塚は動画部として確立する前から、坂本や山本の屯するところにやってきて、動画に対する夢を語るとともに、
意中にあった第一作とすべき、アニメーション映画のストーリーを原稿用紙数枚に書いてみんなに見せた。タイトルは「ある街角の物語」とあった。そこにはこんな詩のような荒筋が書かれていた。
ここにお大略を紹介してみる。

ヨーロッパのどこかの国のある街角。
今日も風船売りの小父さんがその路地にやってきた。その一つの風船が、なにかの拍子に、ひとつフワフワと飛んでしまった。アパートの屋根の樋にひっかかった。屋根裏に住む貧しい女の子は、それを取ろうとして、抱いていたクマのぬいぐるみを窓から落としてしまう。ぬいぐるみは屋根を転がって誰の手にも届かない樋に止まる。女の子はそのぬいぐるみにドロップを投げてやる。
屋根裏には子沢山ネズミの一家もいて、しょっちゅう騒動を繰り広げる。
路地の壁には様々なポスターが貼られている。その中の、酒場女のイラストポスターは、青年バイオリニストのポスターに色目を使っているが、青年は離れたところにある少女ピアニストのポスターにひかれている。やがて青年のバイオリンからも少女のピアノからも、愛の曲が流れ始める。
路地に立つ古い街灯は、もう寿命が尽きようとしていたが、ポスターの青年バイオリニストと少女ピアニストの励ましの合奏を聞き、力を振り絞って灯をともすことが出来る。
路地に植えられたプラタナスは今年も、種をまこうとしているが、舗装されている路地ではなかなかうまくゆかない。
こうしたささやかな住人達の日常生活の場へ、ある日突然、軍靴の音が鳴り響き、独裁者のポスターが、その街角に張られだす。住民たちの抵抗もむなしく、独裁者のポスターの大行進だ。
戦争がはじまり、街角にも爆弾が落ちる。そして多くの住民の死。青年と少女のポスターは爆風にはがれて一つになって燃え切った。
時は流れる。
戦争は終わった。廃墟の街角にあの屋根裏部屋の少女はがやってくる。瓦礫の下から焦げた熊の縫いぐるみを見つけ、頬ずりして抱きしめていた。傍ら土のほとりに、緑のプラタナスが芽を吹いていた。

これを動画部のみんなに読ませ、手塚は,おやつのカリントウをかじりながら、癖になっている貧乏ゆすりをしながら、
「どうですか」
と一同を見まわした。皆はいいですね、と溜めいき漏らし、息をつく。手塚は続ける。
「僕はこれを映像詩みたいな作品にしたいんです。せりふは一切なく音楽と効果音だけで表現してゆく」
「いいなー」
と誰かが声を発する。
「だけど売れますかね」
「商業的な映画館でやる興行は考えは無いんですよ。第一作ですから、我々の力が十分出ればいいんだ。うんと実験的な作品でいい。会場借りて上映会をやりましょうや」
皆それに同調する。
「じゃ僕が絵コンテを書きます。坂本氏と山本氏はキャラクターを書いてください。仕上げに渡辺さんと広川さんの仕事はその後ですね、ワハハハァ」
手塚の声は全く明るかった。
こうして夢の動画制作は、第一歩が踏み出されたのであった。
(続く)

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