あと読みじゃんけん(6)渡海 壮 人は死ねばゴミになる
「ミスター検察」と呼ばれた元検事総長・伊藤栄樹(しげき)のがん闘病記『人は死ねばゴミになる』(新潮社)は昭和63年(1988)6月に発行された途端に大きな話題となった。なかには「死ねばゴミになるとは何事か」と題名に批判の矛先を向けた人たちも多かったが販売半年間ながらこの年のベストセラー10位に食い込んだ。これは話題本を読むのをなによりの楽しみにしていた父の蔵書の一冊である。8月20日発行ですでに11刷。地方住いだったのでなじみの書店に注文はしたものの<増刷待ち>だったのかもしれない。
3か月前から書き始めた『あと読みじゃんけん』の6回目をどうしようかと考えていたら、前回取り上げた宮崎学の『突破者』と同じ「事件・犯罪・その他」の棚にこの本があった。分類からいうと事件関連本も、それを裁く裁判官、検事に対する弁護士なども、法医学、犯罪心理学関係も同じ棚に置いている。しかも新刊から古書まで混在しているけれどあくまで自分流だから<これでいいのだ!>である。
検事総長就任のインタビューで伊藤は「特捜検察の使命は<巨悪退治>です。巨悪と闘う武器は法律であって検察官たるもの<遠山の金さん>のような素朴な正義感を持たなければなりません」と語ったことから「巨悪を眠らせるな」が時の流行語になった。伊藤は十年来、年中行事にしていた6月の人間ドックは多忙のためこの年は1か月遅れになったが、レントゲン検査、エコー(超音波)検査などは異常なしだった。ところが10日後に右下腹部の痛みがひどいので別の病院に入院し「虫垂炎の疑い」で昭和62年(1987)7月に開腹手術を受けた。点滴、流動食、五分粥と順調に回復し、東京高裁で田中角栄元総理を含むロッキード事件丸紅ルートの控訴審判決の出た同月29日の水曜日には病院から最高検察庁(最高検)にある検事総長室に登庁した。
共同記者会見を終えて病院に戻ったその夜、主治医の部長から小腸末端から大腸にかけての回盲部にがんが見つかり組織培養の結果でもすでにリンパ腺と腹膜に転移があることが判明したという告知を受けた。さらに「それはともかく、今回の手術に関しては、もう治っていますので、いつでも退院してがんに対する手当を続けることにして下さい」と淡々と告げられた。このような場面に平素は冷静なつもりの伊藤も、さすがに部長の姿が一瞬遠くなったり、近くなったりするのを禁じ得なかった。翌日、退院前に再び部長に会い、「最良の場合、何年位生きられるでしょうか。私は楽天家なので、それを目標にがんばりたいと思いますが」と尋ねたが「個人差が大きいので、何ともいえませんが最善を尽くしますからがんばってください」という答えしか返ってこなかった。
がんであることは、余計な心配をかけ、波風を立てたくないのでごく限られた人たち以外には内緒にしておくことにして人生設計をやりなおすことにした。確たる根拠はないが、若干の欲目を加えて、昭和63年5月頃まではいのちがあるものと<盲断する>ことにし、検察人事の立案にあたる法務事務次官にも早期勇退を申し入れた。妻の康子を「康ベエ」と呼んで来たが、いちばんの難問は死後、残された妻である。退職金をつぎ込んでやっと払える計算となる終の住処も間もなく完成するがここ一年ばかりの間に地価の上昇は著しく、ある程度の相続税を納めるとなるとそんなお金はどこにもない。昭和24年以来、検事として、馬車馬のように仕事ばかりに打ち込んできた。仕事の忙しさにかまけて40年間、ほとんどほったらかしにされて、さびしい思いをしてきた康ベエだったが、毎日いつも自分の隣に夫の顔がある生活は、あこがれの的だったと思う。それもだめになってしまった。それでも「あなたといのちを取り替えたい」という声がはらわたにしみとおる。
小康を得て役所に出るようになり、最高裁判事の葬儀では検事総長として、また大学、軍隊、司法修習を共にした友人として弔辞を読むが万感胸に迫る。手術前から大相撲の親方、横綱らと約束していたゴルフ、康ベエの誕生日に思い立って出かけた箱根プリンスホテルへの一泊ドライブは、紅葉の季節にまた一泊するつもりで予約を入れた。ところが10月6日には胃が痛むので翌日、入院して検査を受ける。結果はがん再発。心配された腹水がたまり始めているので早急に入院することになる。一日だけ点滴を止めてもらいこっそりと検事総長室へ。もう来られない場合を考えて机やロッカー、本棚の中の整理。これまで一度も職場を見たことのない妻と娘も同道、最後に一度だけ「職場」を見せかたがた手伝わせる。帰途、家に寄り、書斎の机の引き出しなどの整理。本箱、書庫の本のたぐいの整理方針は娘に言い置く。午後、病室へ戻る。康ベエが洗面所にブランドものの男性用の石鹸を置いてくれている。毎朝の洗顔と風呂・シャワーに使うことになるが、随分大きいので、多分死ぬまでこいつと付き合うことになるのではないか、わが人生最後の石鹸になるのではないかと思い妙な気持ちになる。そんなことをとりとめなく考えているうち、ぼつぼつ一番大事なことに決着を付けておかなければならないと思い至った。つまり、私自身、間もなく間違いなくやってくる自分の死をどのように納得するかということである。前回の退院前の「告知」以来、おぼろげに考えていたことをベッドのそばに座ってくれている妻を相手に整理する。
僕の家も多くの日本の家と同じように檀那寺を持ってはいる。しかし、仏教という宗教を信じているわけではない。僕は、神とか仏とか自分を超えたところに存在するものにすがって心のなぐさめを得ようという気持ちには、とうていなれそうにない。それに、四十年も、冷静、客観的に証拠を科学的に追い求め、そこから過去にあった事実を再現、認定する仕事を続けてきたせいだろう、僕の頭は、生命科学などといった分野のことは暗いながら、科学的、合理的な思考の方が受け入れやすくなっている。
僕は、人は、死んだ瞬間、ただの物質、つまりホコリと同じようなものになってしまうのだと思う。死の向こうに死者の世界とか霊界といったようなものはないと思う。死んでしまったら、当人は、全くのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろうよ。
死んでいく当人は、ゴミに帰するだけだなどとのんきなことをいえるのだが、生きてこの世に残る人たちの立場は、全く別である。僕だって、身近な人、親しい人が亡くなれば、ほんとうに悲しく、心から冥福を祈らずにはいられない。それは生きている人間としての当然の心情である。死んでいく者としても、残る人たちのこの心情を思い、生きている間にできるかぎりこれにこたえるよう心しなくてはなるまい。
康ベエには大いに不満の残る私の独り言であったろう。でも、涙を浮かべながらも、じっと逆らわずに聞いてくれていた。「ごめん」
伊藤がいかにして「がん告知」とその先にある死を受け入れたか、という題名にかかわる部分をくわしく引いた。
その後、病状は一進一退を繰り返す。10月30日、妻が、家の蔦(つた)がこんなにきれいに紅葉したといってニ、三枚持ってきてくれたのに触発されて、駄句二つ、として
腸腐る病に伏して蔦紅葉
点滴具連れて歩めばそぞろ寒
鼻から挿入したチューブで看護婦さんたちに腹水やガスを抜いてもらうのを
空也忌に鼻からはらわた抜いている
空也忌は11月13日である。体調に小康を得て
小春空もすこし生きていたくなる
再手術で人工肛門を取りつけたが順調に回復して年越し。元旦に行われる宮中の新年祝賀の儀には不参せざるを得なかったが一句を
病室の窓明けゆくや去年今年
突貫工事で進められた自宅も完成して何度か宿泊することもでき、1月には仕事にも復帰して3月に退官した。共同記者会見や何日かかけて関係各所への挨拶を済ませ、皇居にて退官御挨拶の記帳のあと、東宮御所で皇太子殿下に御挨拶、首相官邸で竹下総理に挨拶。翌日は最高裁長官と日本弁護士会会長に挨拶してすべての公式行事を終えた。
本書は『新潮45』に「人は死ねばゴミになる―私の発病から死まで(上)(中)」と発表されたものに、体力が落ちて家族に引き継がれた5月3日から死に至るまでの同じく『新潮45』の(下)を「付録」として挟んだ体裁になっている。
5月25日、盲腸がんとがん性腹膜炎のため永眠。63歳であった。
*伊藤栄樹『人は死ねばゴミになる』(小学館文庫、1998)