書斎の漂着本(84)蚤野久蔵 果心居士の幻術
のちに作家となる司馬遼太郎は産経新聞京都支局で「宗教記者」をしていたことがある。聞き慣れないかもしれないが東西本願寺を始め社寺が集まる京都には「宗教記者クラブ」がいくつかあり、宗教担当のことをそう呼んでいた。同時に京都大学に記者クラブがあって各大学を担当する「大学回り」も兼任していたから、大阪本社に転勤するまでの6年間<京洛の巷>を忙しく駆け回った。この『果心居士の幻術』(新潮社、昭和36年=1961年)は直木賞を受賞した翌年に出版されたが収録された6作のうち半分は京都が舞台で、受賞作の『梟の城』と同じく忍者など異形異能の人物が描かれている。
いささか風変わりな装幀は『梟の城』を手がけた挿絵画家の山崎百々雄(ももお)で右側の本体のほうは、彩色したあとで折った紙を切り抜いたのを畳表に広げたデザインである。『梟の城』は講談社で出版社は違うが司馬としては受賞したという幸先良さもあって気に入っていたのだろう。山崎は池波正太郎作品の挿絵を手がけた<四人衆>のひとりで、昨年104歳で亡くなった中一弥もそうだった。
果心居士は戦国時代に名を知られた忍者で、奈良・興福寺において受戒した天竺人婆羅門(ばらもん)僧の子として登場する。天竺はインドをさす。嵐にあった唐船が紀州熊野に漂着し乗っていた婆羅門僧は上陸して興福寺へ入った。仏法僧としては特記するほどのこともなく生涯を終えようとしていたが、死の間際に友人の僧・義観に「東大寺に紙を納める商人の娘と女犯(にょぼん)で子を成した」と告白する。できることなら弟子にしてやってほしいとも。長じてこの子である果心は雅楽を学ぶうち、自分のルーツを思うあまり血が騒ぐ。当時は「外道」とされた婆羅門学を密かに学んだのが義観の知るところとなり破門されてしまう。
各地で修行を重ね、婆羅門の幻術を自由自在に操ることができる忍者となった果心はとてつもない仕事をする。天正5年(1577年)7月、大和葛城山のふもと、当麻村で田楽を見物していた武士8人が首だけを残して殺害された。里の領主は筒井順慶とともに信長による石山本願寺攻めに参加して不在で、留守を預かる弟・道秀とその近習たちが田楽見物に出かけていた。
田楽がすすむうち、見物も演者も入りまじって、百人あまりの里人が、田のふちで狂気に近い乱舞をはじめた。
そのうち、日が午後へ傾くようになってから、踊りつかれた群衆が、ふと東のあぜの静かさに気づいて、
「ありあー」
と一様に声をあげた。たしかにあぜの上に小袖が敷き詰められ、その上で道秀とその近習が見物していた。が、いつの間にか、ひどく背が低くなっていた。よく見ると、そこにならんだ八人の武士は、すべて首だけだった。
胴が、溶けたように消えていたのである。首だけが田楽を見物し、なかには口をあけて唄い、おかしさに笑いほうけている首もあった。
どういう方法で切り取ったのか、むろん、幻術のことだから、記録にはなんの解説も残されていない。
つまり、武士たちは筒井順慶につながる者たちで、これを知った順慶は果心居士が身を寄せる松永弾正に謀反のきざしがあると信長に知らせた。これほどの術を白昼堂々と使えるのは果心居士しか思いつかないからと。弾正が討たれると果心居士はこんどは順慶に近づき、最後は豊臣秀吉の前で大峰山の修験者によってその術が破られて死ぬ。
武将たちに利用されては使い捨てにされた忍者たちの悲劇的な宿命という歴史の断章に光を当てる初期作品群のひとつが『果心居士の幻術』である。司馬は「忍者の名は、その身分や仕事の成り立ちからして、容易にのちまで残るものではない」としながら忍者についてこう解説している。
間忍(しのび)は飼いぬしを上忍と言い、上忍の命で諸国の武将に傭われてゆく者を下忍という。いわゆる忍者とはこの下忍のことだろう。上忍は、つねづね百姓の子を物色して間忍の才のありそうな者を見つけては買い上げ、それに過酷な訓練をほどこす。そういう子飼いの下忍のほか、諸国の忍びの芸に長けた者が集まってきて、上忍のもとに身を寄せる。おなじく下忍ではあったが、これを客忍と言った。果心は、この客忍だった。僧でも武士でもない客忍の果心は、法華経演義に言う居士だとして「居士トハ清心寡(か)欲ニシテ道ヲモッテ自ラ居ルナリ」とあるように文字通り欲がなく、しかも、異道ながらも道をもって自ら居る人物である。ただ、武士ではないために、合戦することは苦手だったと。
二作目の『飛び加藤』では果心居士の双璧として挙げる忍者、飛び加藤が京都の二条柳馬場にあらわれ、群衆を前にして生きた牛を丸ごと飲みこむ<幻術>を見せる。通りがかりにこの術を目撃した上杉謙信の家臣が加藤を越後の謙信のもとへ招き、加藤は10日間ほど召し抱えられるが、その異能はかえって謙信に強い恐れを抱かせることになり殺されてしまう。
いずれも冒頭に紹介した「宗教記者」としての司馬の目による時代背景のつかみかたや宗教知識が込められているが、いちばんそれらしい作品は最後の『牛黄(ごおう)加持』ではないだろうか。舞台は平安時代末期の同じく京都である。16歳で得度し、醍醐寺山内の理性院で修行する義朗(ぎろう)は師の賢覚僧都から選ばれ、口伝として伝えられる真言の秘法・牛黄加持を行うことになった師を助ける大役を命じられる。義朗が入手に奔走した牛黄はごくまれに牛の内臓にできる病塊で、生きた牛からとったものを使って加持に臨むことになる・・・。
何回か書いたことがあるが、社会人の始まりを新聞記者として同じく京都で送った私は、支局へあがる途中、先輩記者の原稿を預かりに西本願寺の記者クラブによく立ち寄った。そのときに「ここで司馬さん、よう昼寝してはったんや」と教えられた<伝説のソファ>があった。たしか紺色ビロード地で片方の背が高くなっている「カウチ」と呼ばれる種類だったと記憶する。もっとも、同じようによくやっていたと伝えられた西本願寺の国宝・飛雲閣での読書と昼寝にしても、あとで造られた<伝説>ではなかったかと思う。すぐそばには龍谷大学の図書館があって「記者クラブにはほんのちょっと顔をのぞかせるだけでしょっちゅう入り浸っていたのはそちらの方」と聞いたし、東本願寺や他の社寺、大学にも生来の<知の好奇心>をかき立てる「居場所」がたくさんあったはずだから。
場所を取ることもあって冊数の多い長編作品のほうはほとんど処分してしまったが、『新聞記者司馬遼太郎』(文春文庫)といった新刊とこの『果心居士の幻術』や『梟の城』『最後の伊賀者』など忍者ものは変わらず書棚の一角を占めている。