書斎の漂着本 (94) 蚤野久蔵 すたこらさっさ(その2)
前回は田辺茂一、いや田原茂助の<ヰタ・セクスアリスな日々>を少しばかり紹介した。茂助の淡い初恋の行方が気になるかもしれないのでまずはそちらから。
ある日、慶応からの学校帰りの青山6丁目電停で山脇女学校4年生だった三姉妹の長姉に声をかけられた。
「田原さんじゃありません?震災のときはせっかくおいでいただいたのにお構いもしませんで。またお遊びにいらっしゃらない」
「ええ、ありがとう、また・・・」
惚れたとなると、その恋人の姉に対してでさえ、ぎこちない。それからも同じ電停で彼女に出会った。姉に会うことは妹に会ったのも同様と思っていたが、三度目の九十九里浜、一の宮海岸行きで、本命の妹からは
「姉も田原さんを好きらしいんです」
と言われて狼狽する。
帰京した茂助が腸をこわして入院したことをどこから聞いたのか姉が毎日面会にやってきて
「あたし以前から田原さんのこと好きだったのよ。お嫁にもらって下さる」
と言い寄る。返事に詰まると
「わかったわ、妹の方が好きなんでしょう」
「そうよ、それに決まっているわ」
とエスカレートした挙句、死ぬの生きるの、とまで。ようやくなだめたものの
「そうだわ、あたし生きていてあなたを看視する。あたしの眼の黒いうちは、けっして、けっして、田原さんのところに妹をお嫁にやらさない・・・」
こうして3年がかりの初恋はあっけなく幕となったのである。
茂助の学窓生活もようやく終わりに近づいた。追慕する教授もいず、語り合うクラス仲間もなく、味気ないものであった。登校時間こそ少なかったが店の売上金をくすねることで、茂助の懐具合はいつも良かった。友人の洋服代や授業料を代わりに支払ってやったりしたので何となく異色の存在でもあったから春の卒業を控えたクラス会の世話役に選ばれた。クラスの大半は地方中学の出身で東京の事情には暗い。それなのに最後だから盛大にやろう、芸妓もあげよう、記念写真も撮ろうということになった。茂助にしても父親の代理で18歳から炭問屋の組合の宴会に出て芸妓などの見聞はあるがそれ以上の仔細は知らない。玉代、祝儀、心づけのことは皆目分からないし料亭もどこを選べばよいのか。窮余の揚げ句、父親に相談して津之守の「伊勢虎」を紹介してもらった。
「津之守って四谷荒木町ですか。昔、年始に行ったことがあるから知ってはいますが芸妓はどういう名前のを呼べばいいんですか」
「ウム、名前か。そうだなあ、千成、高弥、まあ、そういうのは婆さんだけどな・・・じゃ、あとで電話しといてやるよ」
「値段のほうもひとつ、勉強するように言って下さい」
「ウム、ようしきた。心配するな」
有名料亭の「伊勢虎」は植え込みの奥へ石畳を抜けて行くと大きな玄関があった。学生たちにとっては分に過ぎたが正月も押しつまったある日、クラスのほぼ全員40人近くが2階大広間に顔をそろえた。父親はここの主人と飲み仲間だったこともあって半玉の3人を加えて、10人ほどの芸妓が裾をひいてあらわれ、三味線、太鼓に、手踊りが繰り広げられた。世話役の委員長格だった茂助は対の細かい柄の久留米絣にセルの袴で豪華で艶やかな場を仕切り、当然のように肩を張って一座の中央で記念写真におさまった。招かれた老教授のひとりが
「田原さんでなければこういう立派な宴会はできませんね」
と耳もとでお世辞をささやいた。
酔いも廻った茂助は芸妓の案内でクラス仲間の3人と「ひさご」という待合へ二次会に繰りこんだ。右にも、左にも、前にもおんな達がいて狭い座敷は<混浴>のようでもあった。その夜、仲間たちは当然のように別室に分かれておんな達を抱いたが、そんな経験がなかった茂助は<酔余の勢い>には乗れずわが家へ帰った。
それからは毎夜のように「ひさご」に通うことになった。「木之国屋の若旦那さん」と呼ばれれば親の七光りとはいえ、悪い気がしない。軍資金には事欠かない。
「若旦那、明日の晩もネ、お待ちしているわ」
と言われるとまだ初心(うぶ)な茂助は
「ウムウム・・・」
とこたえる。
やがてここで知り合った三、四歳年上の「すま子」という芸妓と出かけた御殿場の宿で結ばれた。留年を覚悟したのにビリから二番の成績で無事、卒業して炭屋の帳場に座る毎日。兄弟もなく、母もいない。父は若い女房を迎えていたから茂助は家ではひとりぼっちだった。炭屋は夕方の帳付けの付け合わせが済むとそれで終わる。現金売りは適当に省略して帳面には載せないからその一部をふところに、家の前からタクシーを拾い荒木町の花街へ。入り浸ったのは後年、パリ帰りの画家たちが<メイゾン・ルージュ>と呼んだ「小花」だった。何せ<芸事は抜き>だからいきなり別室で、一夜に二人が常習となった。それもあきたりないと三人になる。狭い土地だから一日も欠かさない「小花のたあさん」は、年齢はともかく<新顔一辺倒>で、掃くのは一回こっきりというところから「箒(ほうき)のたあさん」と言われて検番のおんな連には鬼門となった。しかも茂助が飲むのは「金線サイダー」だけで酔うこともなく12時を過ぎたらきちんと家に帰っていたから父親も文句のつけようがなかった。
芸妓遊びも退屈になったころ、茂助は父に
「もう炭屋は無理、本屋しかしたくない」
と言いだした。
困った父は知人の弟分が四谷見附に町田書店という本屋を開業していたので
「そこへ行ってみろ」
ということになった。店主は銀座の近藤書店で丁稚小僧からたたきあげた人物で、茂助の事情を聞くと
「若旦那も一度、そういう奉公をなさったらどうですか。商売を本当に覚えるならそのほうが近道だと思いますがね」
と近藤書店での修行をすすめた。
五日後、木綿の盲縞の筒っぽに角帯、前掛け姿で町田店主に付き添われて銀座に出かけた。尾張町角(銀座4丁目交差点)の近くにあった近藤書店は本屋らしい間口の狭い、奥行きの長い店だった。奥の突きあたりが帳場で、背を円くしたやせた年輩の老主人がそこに座っていた。先方も新宿の木之国屋の若旦那であることは知っていたから丁寧だった。
「御参考にもならないと思いますがネ。まあ、辛抱してやってご覧なさい」
茂助は初めて奉公する身となった。
もちろん近藤書店へ行ったのは初めてではなかったから、どこに雑誌があり、どこに全集があり、どこに新刊書が並んでいるかは先刻承知だった。新宿の本屋へは暇さえあれば三度の飯よりも多くのぞいていたから本の背中を見ただけでどこの出版社の本だかも見分けがついた。棚から本を取り出すのはカルタ取りのようなものだ。素早く取り出して見せるぞ、と意気込んでいたが誰一人そういう客はいなかった。ただ本を包み、有難うございます、だけでは芸もなければ曲もない。銀座通りの人波をただ眺めているのは退屈で、万引き監視人に等しいから馬鹿らしくなってきた。
正午になったところで帳場に座る老主人に
「いろいろ有難うございましたが、だいたいわかりましたから、これで・・・」
驚いた主人は
「左様ですか。立ち通しでなかなかお辛かったでしょう」
と引き止めはしなかった。
朝の8時からきっかり12時まで正味4時間、茂助の生涯では最初で最後の奉公だった。
戻ってきた茂助を見て父は
「やっぱり本屋なんて面白くないだろう」
と言った。
「とんでもない。だいたいわかったからすぐ始めようと思って帰って来たんで、板塀と風呂場のところを貸して下さい」
と茂助はかねて計画していた新店舗の構想をしゃべった。
「大工はどうするんだ」
「それも見積もりをとってあります。総坪数36坪で6千円です」
手順の早さに父もあきらめたようすだった。
明けて昭和2年1月22日、木之国屋書店は開業した。間口3間、奥行6間、木造2階建。階下が売場で、階上に通じる階段下の空間に机を一つ置いて帳場にし、その横の四畳半の洋間を作り、そこを茂助の応接兼事務室にした。階上は絵の展覧会用のギャラリーにした。昭和の初めの東京には画廊は日本橋の丸善と銀座の資生堂があるだけで珍しかった。店の売場のことは分かったが仕入れのほうは皆目わからなかったので町田書店の主人に依頼して近藤書店の老番頭に来てもらった。その老番頭に町内の鳶の倅の16歳の小僧、新聞広告で集めた女店員2人と茂助の5人でフタをあけた。ときに茂助22歳だった。
父親は「今に飽きるだろう。どうせ永続きしっこない・・・」。その目算をよそに2月は階上ギャラリーで「現代洋画大家展」を企画した。画廊が少ない時代だったので大家のほとんどが出品してくれ新店舗開業祝いにと近所の人が気前よく買ってくれた。それをきっかけにして東郷青児ら二科系や1930年協会の画家が出入りするようになった。一方では水戸高から東大へ進んだ舟橋とも付き合いが続いていた。築地小劇場で演出を担当していた舟橋は茂助に歌舞伎役者で劇団前進座の創設メンバーの河原崎長十郎や演出家の村山知義を紹介してくれ、役者や新劇女優らとの交友関係も広がって行く。
それから40年、茂助は日本テレビの深夜番組「11PM」に出演した。
司会のKさんが
「女の数が多いようですが、なぜそんなに?・・・」
「つまり、母親が理想でネ、そういうのに似た女を探してネ。それが見つからないままの遍歴でしてネ。三千人というけれど、まあ洒落みたいだが、母をたずねて三千里ということでしょうな」
茂助に用意はなかったがとっさに出たこのやりとりも半分冗談で、半分、真相であるらしい。書店経営も40年だが、女の清掃も40年の「すたこらさっさ」。小突かれたり、つんのめさせられたり、足払いを食ったりしながら、それでも懲りずに女の影を慕ってきた。「人生多彩」が茂助の標語だが、言葉を換えれば「七転び八起き」だ。賽の河原の石と知りつつも、積んで積んで積み抜くのが、世間の約束というものである。
「続」は一変して文化人としての交友が綴られる。相変わらず茂助は<その数ドーダ>の生きざまである。毎日のように銀座の文壇バーをハシゴしてドーダ、ドーダ。そして「すたこらさっさ」となる・・・。
それは茂助の心象風景でもある。春夏秋冬、花鳥風月、ぶれない生き方がすっかり身に付いた。
「すたこらさっさ」
いま、茂助はひとりだ
まわりに
だれもいない
春も
夏も
秋も
冬も
ない
花も
鳥も
風も
月も
ない
そんなもの
なにひとつ欲しくない
そんな男に
成った
毛頭
生きていることが
嫌に成ったわけ
ではない
だが別のことで
欲しいものは
いっぱい
ある
思えば
それが欲しさの
すたこらさっさ
であった
なんだろう
わかっている
わかっているから
茂助だけは
疲れない
それが
自慢だ
そういえば以前、よく通った京都祇園のお座敷バーでこれを毛筆で書いた直筆の屏風を見た覚えがある。一言一句この通り、最後に「田邊茂一」と署名があった。ということは、茂助は茂一、いや茂一は茂助なのか。
いいではないか、余計な詮索はこちらも「すたこらさっさ」ということにしておこう。