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書斎の漂着本 (100) 蚤野久蔵 西洋音楽の知識

4年前に始めたこの連載もちょうど100回目。まだ道半ばなので、はしゃぐ気はないものの「節目」ではあるので、これまでに取り上げたことがないジャンルを紹介することにした。明治・大正・昭和と作曲家、音楽教育家としてわが国の音楽界に大きな足跡を残した小松耕輔(こまつ・こうすけ)が初心者向けに書き下ろしたわが国初の入門書『西洋音楽の知識』である。大正9年5月25日に発刊されると30日に早くも再版、6月5日に3版を出していることからも大変な人気だったことがわかる。発行元は東京・神田のアルス書店で、巻末の出版案内に北原白秋、室生犀星、三木露風、相馬御風などの小唄楽譜や歌集が掲載されているところから音楽、詩歌関係専門の出版社のようだ。

 

     小松耕輔著『西洋音楽の知識』(アルス書店刊)

 

数年前に京都・寺町通りの古書店の「均一棚」=店頭にある雑本を並べた棚=のいちばん上にあったのを手にとったのがきっかけ。外函もぼろぼろで何度も修理したあとがあるし背表紙の金箔押しも剥げかかっている。所有者は余程大切にしてきただろうに誰も購入しなければそのまま廃棄処分されてしまうだろうと思ったわけで・・・。現在と違い当時の本は著者のプロフィール紹介がないのがほとんどで、私も関心分野以外は不勉強ゆえ、著者が「わが国の音楽界に大きな足跡を残した人物」とは知らなかった。当然ながら出版社そのものも少なく、逆に言えば著名人や有名な学者が著者なのだから購入する側は「書いたのが誰であるか」がわかっていたわけですね。新聞広告やこの本にも書かれている楽器店の店頭ポスターなどで知ると<書店に急いだ>から短時間に版を重ねた事情も伺える。

 

 

外函と表紙の裏側の2か所に「U.SUGIMOTO」のゴム印らしきものが押してある。この本を長く愛蔵していたのはこの「スギモト」なる人物なのか。インクはセピア色に変色しているが最終処分、つまり売却されたのが京都の古書店だから京都市かその近辺に住まわれていたのだろうと想像する。

函が壊れかけているので慎重に本を取り出し、ぱらぱらとめくりながら目次などを走り読み、あとで紹介する写真や挿画、このゴム印を見てわずか数分、いや1分足らずで音楽には門外漢ながら興味が湧いた次第。いつもながらの古本買い主義というか、均一棚を前にしての私の心得は<迷ったら買う>。かといってここまで傷んだ本を買ったことは経験がないし、そんな本を連載の節目に選ぼうとは自分でも不思議ですねえ。

 

冒頭に紹介した小松耕輔についての記述は書斎に戻ってから仕入れた「あと知識」と告白して続ける。

 

『広辞苑』には、作曲家、秋田県生れ、フランスに留学。音楽評論や音楽教育の分野でも活動。日本最初の歌劇「羽衣」、歌曲「泊り船」など。(1884-1966)とわずか3行だった。何冊かの人名辞典にあたるとほとんどにその名があるが、なかでも詳しかった『コンサイス日本人名事典』(三省堂)にはさらに、東京音楽学校(東京芸大)在学中にわが国最初の洋楽の手法による本格的なオペラ「羽衣」(1906)を作曲するなど、創作オペラ運動の先駆者として活躍。1920~23(大正9~12)パリ音楽院作曲科に留学後、1927(昭和2)国民音楽協会を起こしてわが国最初の合唱コンクールを創始し、みずからも童謡や合唱曲を多数発表して合唱運動の先駆者の1人となり、敗戦後は学習院大、お茶の水女子大、東邦短大の教授を歴任し、音楽教育の面からわが国音楽界の発展につくした。

 

「序」には「此書は音樂の初學者に向って其の一班を知らしめんがために書かれたものである。其故になるべく専門的の説明を避けて通俗を旨とした。止むを得ざる限り樂譜等の挿入をさけ、文字の説明のみを以て了解せしむるやうに心掛けた。樂譜を讀み得るものに向って音樂を説くは容易であるが、然らざるものに向って説明を試みるは極めて難事である。」と書く。目次に続く最初の挿画はその下に右から左へ「黙想せるヴエトオヴエン」とある。あごを引き、目は真正面をぐっとにらみつけているように見えるからとても「黙想している」ようには思えないけれど。

 

 

もうひとつはざっと数えただけで数百人規模が写る写真である。「グスタアヴ・マアラア氏作第八交響楽の演奏」(フイラデルフイアオルケストラ)とある。

 

「ヴエトオヴエン」にしても「グスタアヴ・マアラア氏」や「オルケストラ」もそのままでは読みにくいと思われるので以下は現行漢字、現代仮名遣い、人名は『広辞苑』最新版(第七版)に拠ることとし、最低限の言い換えはお許しいただきたい。例を挙げると「序」は「この本は音楽の初心者向けに(略)文字の説明だけでわかりやすく(以下略)」、挿画は「黙想するベートーヴェン」、写真は「グスタフ・マーラー、フィラデルフィアオーケストラ」とさせていただく。

 

小松が言う通り<難しいことを初心者向けにわかりやすく>というのは難事だろう。管楽器についての助言をもらったことに謝意を表するとあげた瀬戸口藤吉も『コンサイス日本人名事典』によると、

 

明治・大正期の軍楽隊指揮者・作曲家。海軍軍楽師時代に鳥山啓作詞によった<守るも攻むるも>の「軍艦」を作曲、のちに「軍艦行進曲」として改作、1911年のイギリス国王戴冠式には軍楽隊を率いて列席し、ヨーロッパ各地で演奏した。

 

余談ながらこのイギリス国王はエリザベス女王の祖父に当たるジョージ5世である。「軍艦行進曲」は昔よく通ったパチンコ店でかかっていたあの曲、「軍艦マーチ」ですね。調子のいい時には鼻唄が出そうになった。ただし「攻むる」じゃなくて「攻める」と覚えていた。反対にかなりつぎ込んでもう帰ろうかと思っている時にこれがかかると、もうちょっとやって負けを取り戻そうなんて気になって・・・結局、食事代までスッてしまう羽目に。

 

他にも多くの助言や協力をもらい、忙しいなか何年もかけて試行錯誤や推敲を重ねてようやく脱稿に漕ぎつけたと思われる。ありきたりの表現で恐縮だが<懇切丁寧><微に入り細にわたり>構成されて仕上げられた「本物の労作」なのだ。「あくまで音楽初心者にわかってもらうためどうするか!」という小松の並々ならない目配りがあふれている。「序」は5月1日付、初版が20日印刷、25日発行で、パリ音楽院に留学したのはこの本の発刊と同じく大正9年である。当時ヨーロッパへ向かうのはイギリス領だったシンガポールからインド洋、スエズ運河、地中海経由の南回りの船便で2か月近くかかったたから、そのあとあわただしく出発したのだろう。

 

書き出しは「秋もようやく更けて、夜な夜なの虫の声も何となく身にしむ頃となると、楽器店の飾り窓や新聞の雑報がはやくも音楽会の開かれることを報じるであろう」と始まる。「そこで私は諸君と共に音楽会のために楽しい一夜を過ごそうと考えた。そして音楽会について心ゆくばかり諸君と会話を交え、興つきない秋の夜を語り明かそう」「上野の秋の日曜はそうでなくても人出が多い。その中を自動車や俥(=人力車)が列をなして音楽会の会場へと急ぐ。定刻の午後2時近くなると、はやくも会場が立錐の余地もないほどになる。諸君が会場のドアを入ろうとするその手には今日演奏されるプログラムが渡されるであろう」として例をひく。

 

プログラムには「曲目」、ソナアタ(=ソナタ)は「奏鳴楽」、シムフオニイ(=シンフォニー)は「交響曲」、コンツエルト(=コンツェルト)は「司伴楽」、ロンドは「旋轉調」、メロデイ(=メロディ)は「旋律」、リズムは「節奏」、ハーモニーは「和聲(声)」の漢字を当てているが、それぞれの<たとえ>もおもしろい。

 

「いまここに一つの川がある。川は昼夜を分かたず流れる。流れ行く水はすなわち旋律(Melody=メロディ)である。川の水は時に洋々と流れ、時に滔々と流れる。そこには水の足踏みが聞かれるであろう。これが節奏(Rhythm=リズム)である。川の両岸にはたえず変わりゆく景色がある。時には広々とした野原を過ぎ、時には緑したたる杜(森)の影をうつし、あるいは白楊(はくよう=ドロノキ、ドロヤナギ)の茂みを通り、咲き誇る花びらに接吻(くちづけ)してゆく。これらの水にうつることごとくの物象が即ち和聲(Harmony=ハーモニー)である。水の流れが歌い、足踏みし、岸の影をやどして流れゆくとき、そこには全き(まったき=欠けたところがない)音楽の象(すがた)がある。」

 

思いついたのは<大正ロマンの香り>。門外漢の私には「そうですか、たしかに・・・」とひたすら頷くしかない。

 

演奏会で使われるさまざまな楽器については弦楽器、管楽器から始まって大型打楽器のティンパニーからシンバル、トライアングル、タンバリンに至るまで詳細な図を紹介しているからこの本を会場に持参しても見比べられそうだ。演奏される曲の作者も器楽・声楽の作家として41人、歌劇では17人を網羅しているから十分すぎるほどだったろう。とくに歌劇はモーツアルトの『魔笛』、ワグナーの『タンホイザー』、ヴェルディの『アイーダ』、ビゼーの『カルメン』というように代表作品の舞台写真を添えている。

 

なかでも「黙想せる」の挿画まで紹介したベートーヴェンには13ページといちばん多くを割いている。

1770年12月16日、ドイツ・ボンに生れた。父はエレクトラル寺院のテノール唱歌者で、祖父もまた協会の楽師長を勤めた人である。父は飲酒家で幼児の家庭はかなり悲惨を極めた。かつ彼は病身であったために常に荒涼たる生活を送り、家庭の温かさを知ることができなかった。このために彼は却って満足を芸術に求めるようになる。日常交際を嫌い、隠遁的な偏狭な生活を送らせた。

 

「田園シンフォニー」、唯一の歌劇「フィデリオ」、「第九交響曲」、「荘厳ミサ曲」を次々に公にしたあたりから聴力を失い、手の指のマヒが進行してピアノが弾けなくなると「音楽家にとってこれ以上の悲惨はあり得ないことである。彼はまた物質的にも非常な貧窮に陥った。彼を扶(たす)けた貴族たちも大方死に、また四散して今は僅かばかりの金を得るさえ困難であった。靴に穴ができたため外出を見合わせることもしばしばだった」と苦しい生活をこれでもかというくらい紹介する。

 

かくして彼は1826年11月に重い風邪にかかり、次第に衰弱して翌27年3月26日、雷鳴とどろき、暴風雨の激しい午後の6時に最後の息を引きとった。彼の葬儀にはたくさんの人の大なる哀悼のうちに行われた。

 

これでお終いかというとまだ続く。さらに代表的な作品の細かい解説が終わると「彼は古典音楽の殿将であると同時にロマン的音楽の最初の人である。音楽はバッハに至って一転し、モーツアルトに至って再転し、ベートーヴェンに至って更に衣を着け替えて近代音楽の急先鋒となったのである。彼は日常寡言、人と交わることを好まず、陰鬱なる性質を懐いて、しかも心中には燃ゆるがごとき情熱と人生に対する愛とをもっていた。ある批評家の言った通り、彼の音楽は「人間の精神から霊火を発せさせるもの」である。その熱烈真摯な点は他のいかなる音楽家も及ばない、と絶賛して結ぶ。

 

ここまで読むとなんというかフーッと息を吐いてしまいそうな・・・。他の人物についてもそれぞれ緩急をつけるように描かれているから持ち主と思われるゴム印「スギモト氏」も繰り返し読みふけったのではあるまいか。

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