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“10月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1944=昭和19年  神風特攻隊がフィリピン・マバラカット基地からレイテ沖に初出撃した。

この時期、フィリピンを巡ってはマッカーサー指揮の連合軍が19日からレイテ島への大上陸作戦を開始していた。前段階の「レイテ沖海戦」ではガダルカナルの撤退以降、後退に後退を重ねてきた日本海軍は総力を結集し態勢の立て直しを図る「捷号作戦」を展開した。しかし開戦に先立ち米軍は猛爆撃により日本側の航空兵力1,200機近くを撃破し潜水艦群によって石油輸送路を分断したから燃料難で機動部隊は分散に追い込まれていた。さらに新鋭戦闘機グラマンF6Fの出現で編隊行動がとられたことで零戦が得意としてきた<一騎討ち戦法>が太刀打ちできなくなって彼我の航空戦力は逆転していた。

追い込まれた日本軍は第一航空隊司令長官大西滝治郎中将の号令で最初の神風特別攻撃隊が誕生する。早速20日に大和隊、敷島隊、朝日隊、山桜隊の4隊が編成されると翌日から延べ24機が出撃を繰り返したが悪天候などに阻まれて22機が帰還した。4度目の出撃となった敷島隊の関行男大尉以下5機はサマール島付近の海域で米空母群を発見して突入、護衛空母セント・ローを撃沈させ全員が戦死した。続いて大和隊などの11機が出撃し空母を含む5隻に損傷を与える戦果をあげたが全機が未帰還となった。

海軍は28日に作戦の詳細を発表して<殉忠裂帛の行動である>と称えたがこれ以降、零戦に250キロ爆弾を搭載しての体当たり攻撃は比島、沖縄作戦でも陸海軍とも<得意戦法>になる。アメリカ艦船の乗組員からは「カミカゼ」として恐れられた。

関は母一人子一人、5月に結婚したばかりで特攻隊編成の命令が下った日、妻に次の遺書を残した。満26歳だった。

満里子殿 何もしてやる事も出来ず散りゆく事は、お前に対して誠に済まぬと思って居る。何も言わずとも、武人の妻の覚悟は十分出来て居る事と思う。御両親に孝養を第一と心がけ生活して行く様、色々思い出をたどりながら出発前に記す。

*1825・1838年  同じ日にウィーンとパリで大作曲家が誕生した。

ウィーンに生まれたのは「ワルツの王」といわれたヨハン・シュトラウス(1825―1899)。
『ウィンナワルツ』の作曲で知られる父、兄弟、子と続いた音楽一家のなかでは最も有名だ。毎年元旦に行われるウィーン・フィルのニューイヤーコンサート」は彼やシュトラウス・ファミリーの作品を中心にプログラムが組まれる。父親が音楽家になることに反対だったから大学では経済学を専攻させられた。ヨハンが作曲家となったのは父から独立して父と同じく管弦楽団を設立してからで互いに<ライバル>として競い合った。
作曲家のブラームスと親交を結び、リスト、ワーグナーとも知遇があった。第二のオーストリア国歌ともいわれる『美しき青きドナウ』をはじめ『芸術家の生活』『ウィーンの森の物語』『皇帝円舞曲』など168曲ものワルツをはじめ行進曲ではスエズ運河開通を記念した『エジプト行進曲』『ペルシャ行進曲』『スペイン行進曲』や多くのポルカ、オペレッタ『こうもり』などで世紀末のウィーンを彩った。

パリに生まれたのはジョルジュ・ビゼー(1838―1875)。
声楽教師の父とピアニストの母の英才教育を受け、幼い頃からピアノを学び9歳でパリ音楽院に入学した。抜群の記憶力だったとされ、1861年にはリストの新曲を一度聞いただけで演奏し、さらに楽譜を受け取ると完璧に弾いてリストを驚かせた。リストの紹介でシュトラウスと会っていたかも。歌劇『真珠採り』『アルルの女』『カルメン』などを残すが敗血症のため36歳で世を去ったから音楽家として歴史に名を残すのは『カルメン』が世界で繰り返し上演されたから。ビゼーにカルメンあり、カルメンにビゼーあり!

*1881年  不世出の大画家パブロ・ピカソが誕生したのも同じ日である。

スペイン南部、地中海に面した港町マラガに生まれた。バルセロナの美術学校からマドリードの王立美術アカデミーに進むが中退、プラド美術館に通ってベラスケスなどの名画を複写しながら絵画を独学した。20代でフランスに移った初個展の作品は「青の時代」として知られる。パリ・モンマルトルに部屋を借りて本格移住した。生涯に1万3千5百点の油絵と素描、同数の挿絵、10万点の版画、他にも彫刻や陶器なども残したから「最も多作な美術家」としてギネス記録に記された。

代表作をひとつだけ挙げるならやはり『ゲルニカ』だろう。スペイン内戦でバスク地方の小都市ゲルニカがフランコ政権の依頼によりドイツ空軍の「コンドル軍団」に爆撃されて多くの死傷者が出たことを非難して描かれた。長くニューヨーク近代美術館に預けられていたが1981年にスペインに返還されマドリードの美術館に展示されている。

無名時代、モンマルトルで親友だった女流作家ガートルード・スタインの肖像画を描いた。「ちっとも似ていないじゃないの」という彼女に「そのうち君のほうがこの絵に似てくるさ」と澄まして答えたという。

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