“10月26日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1922=大正11年 利根川源流の旅を続ける歌人・若山牧水はこの朝、老神温泉の宿を出た。
私は河の水上といふものに不思議な愛着を感ずる癖を持つてゐる。一つの流に沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其處にまた一つの新しい水源があつて小さな瀬を作りながら流れ出してゐる、といふ風な處に出会ふと、胸の苦しくなる樣な歓びを覚えるのが常であつた。銚子の河口であれだけの幅を持つた利根が石から石を飛んで徒渉出來る愛らしい姿になつてゐるのを見ると、矢張り嬉しさに心は躍つてその石から石を飛んで歩いたものであつた。片品川の奧に分け入らうと云ふのは実は今度の旅の眼目であつた。(『みなかみ紀行』)
長野・佐久新聞社主催の短歌会を済ませると草津、花敷、沢渡、四万、沼田、湯の平と温泉に泊まって前夜、利根川の支流・片品川沿いにある老神温泉に着いた。信州から上州、野州=下野への山旅だった。花敷と沢渡との間には千メートルを超す暮坂峠がある。牧水は草鞋(ぞうり)を履いて峠を越えた。
草履よ
お前もいよいよ切れるか
今日
昨日
一昨日
これで三日履いて来た
履き上手の私と
出来のいゝお前と
二人して越えてきた
山川のあとをしのぶに
捨てられぬおもひもぞする
なつかしきこれの草履よ (『枯野の旅』)
あいにくの氷雨で風もある。番傘をさし油紙を体に巻いて出かける覚悟をしたがようやく雨が上がりかけたので宿を出た。連れと別れ、ひとりで急ぐ途中に「吹割の滝」があつた。
極めて平滑な川床の岩の上を、辛うじて足の甲を潤す深さで一帶に流れて来た水が或る場所に及んで次第に一箇所の岩の窪みに浅い瀬を立てゝ集り落つる。窪みの深さ二三間、幅一二間、その底に落ち集った川全体の水は、雪白な中に微かな青みを含んでくるめき流るゝ事七八十間、其處でまた急に底知れぬ淵となつて青み湛へてゐるのである。淵の上にはこの数日見馴れて来た嶮崖が散り残りの紅葉を纏うて聳えて居る。見る限り一面の浅瀬が岩を掩うて流れてゐるのはすがすがしい眺めであつた。(『みなかみ紀行』)
岩蔭の青淵がうえへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉
高き橋此処にかかれりせまりあふ岩山の峡のせまりどころに 峡=かい
次々に歌が湧いてきてやがて雨もあがっていた。
*1909=明治42年 伊藤博文が満州のハルビン駅頭で暗殺された。
日本は日露戦争(1905=明治38年)に勝利した勢いに乗じて12月に大韓帝国に日韓条約を押し付け保護国とした。京城(ソウル)に統監府を置くと伊藤が初代統監に就任、3年半にわたり韓国併合を進めたから韓国国民から恨みを買っていた。統監を辞任すると枢密院議長に復帰したがハルピンでロシアの蔵相・ウラジミール・ココツェフと満州、朝鮮問題を非公式に話し合うためハルピンを訪れた。
伊藤ら一行の特別列車がハルビンに到着したのは午前9時、ココツェフが車内に乗り込んで会談し、同25分に一緒にホームに降り立った。軍楽隊の演奏のなかを伊藤が先に立って儀仗兵を閲兵し終わって日本人の歓迎者が居並ぶほうへ歩み寄ろうとした時に銃声が響いた。儀仗兵の後ろから何者かが至近距離でピストルを発射した。伊藤には3発が命中した。いずれも致命傷だった。
鳥打帽をかぶった狙撃犯はロシア官憲に取り押さえられた。朝鮮独立運動家で31歳の安重根でホームにねじ伏せられたときに「コリア(韓国)、ウラー(万歳)」と3度絶叫した。狙撃された伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだ。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知ると「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたのが最後の言葉であったとされる。享年69。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。
安は旅順で裁判にかけられ翌年2月に死刑判決、3月26日に死刑になったが、直前に世話をした看守に墨痕鮮やかに「為国献身軍人本分」と書き上げると左手に墨を塗って手形を押した。<国のために身を捧げるのは軍人の本分>という意味である。このあと安は従弟から贈られた朝鮮紬を着て処刑され、民族の誇りとして英雄視されることになる。