坂崎重盛の季語道楽(18)悄々たり、カマキリとミノムシの秋の暮れ
なにか、この「季語道楽」では、毎回書いているような気がしてきたのですが、なんなんですか? この気象。先月のいまごろは、三十一度を超える日があったというのに、今朝なんかは十度を下回った。少し前まで、アロハでふうふう、夏バテでヨロヨロしていたかと思うと、いきなり、マフラーはもちろん、手袋が欲しい寒さ。もう、なにやら心細くてオロオロしてしまう。気分は、寒気に襲われて、少しでもあたたかいとろへ、と陽なたをさがすカマキリの如し。
実際にカマキリがいたのです。家を出るとき玄関の扉を閉めようとすると、陽の当たる扉の隅にカマキリが取り付いている。その、細いギザギザの肢(あし)が扉を閉めるとき挟まりそうなので、玄関わきの南天の細枝を折って、ツンツンと突っついて移動させようとした。
カマキリの動きは、もともと鈍い。(ほら、そこにいたら、肢が扉に挟まれちゃうよ)と、南天小枝で、そっと突っつくのだが、なかなか動こうとしない。
(うるさいなぁ、ヒトがーーといってもカマキリなのだが、——せっかく陽なたぼっこしているのに)と、いう感じなのだ。
こちらだって出がけで、気分は急いている。(ホラ、ホラ、動けよ!)と少し乱暴に突っつくと、ゆっくり、例の斧を振り上げながら、やっとソロソロ移動し始めた。で、安心して扉を閉めて駅へと向かったわけだが、面白いことに、このカマキリ、翌日の昼も、扉のほとんど同じところにいた。
というわけで、歳時記でカマキリの項をチェックした。
カマキリは「蟷螂(とうろう)」、「鎌切」、「斧虫(おのむし)」、「いぼむしり」とも表する。あまり頭のよさそうではない三角形の小さな頭と、不釣り合いなほど大きなーー鎌のような前肢、怒ると、その鎌をふりかざして向かってくる。これすなわち「蟷螂の斧(おの)」である。「自分の力の弱さをかえりみず、相手に刃向かってゆく」のたとえ。
たしかに人間にとってはカマキリの斧など恐ろしくもないが、周囲の小さな昆虫にとってはたまらない。その鎌で捕らえられバリバリ食べられてしまう。つまり、カマキリは害虫を餌とする益虫。
また、カマキリのメスは交尾を終えたオスを食べてしまう、ことでよく知られるが、それは正しくない、という説もある。交尾を終えたオスだけを食べるのではなく、目の前に動いている虫はなんでも食べてしまおうとする習性があるというのだ。
「蟷螂の斧」とかいって、人間はカマキリのことを馬鹿にしているけど、あれが人間と同じくらいの大きさだったら、そんなノンキなことは言っていられないはずだ。目の前にバルタン星人みたいのがいてごらんなさい。あわてますぞ。
それはともかく、秋の季語、カマキリの例句を見てみよう。
かりかりと蟷螂蜂の顔を食む 山口誓子
ほら、恐いじゃないですか。「蜂の顔を食む」ですもの。カマキリが人間と同じ大きさだったら……、もういいか。
霞に乗りてかまきり風を聴き澄ます 小松崎爽青
風の日の蟷螂肩に来てとまる 篠原温亭
こちらのカマキリは可愛い。次の、
堕ち蟷螂だまって抱腹絶倒せり 中村草田男
蟷螂の目に死後の天映りおり 榎本冬一郎
なにか、滑稽でもあり、悲劇的でもある。カマキリの大きな複眼に映った「死後の天」は澄みきった青空だろう。人の死よりも尊厳があるような……。
カマキリが出たので、ついでに秋の虫を。実は「虫」といえば、それだけで秋の季語。ただし、「秋鳴く」、「すだく虫」。ちなみに鳴くのはすべて雄という。
「虫」の類語は、(関連語)には「虫時雨(むししぐれ)」、「虫の声」「虫の秋」、「虫の闇」、「昼の虫」、「雨の虫」、「残る虫」、「すがれ虫」、「虫売」などがある。
虫鳴くや会いたくなりし母に書く 井上兎径子
其中に金鈴ふる虫一つ 高浜虚子
虫売りと夜の言葉を交わしけり 高木丁二
虫籠に虫ゐる軽さゐぬ軽さ 西村和子
虫といえば、作句をする人には親しい「鬼の子」がある。なにやら恐いような、あるいは、ちょっと可愛いような……。これは「蓑虫(みのむし)」のこと。
あの、枝から細い糸でぶら下がる、ミノムシを、なんで「鬼の子」などと呼ぶのだろう。清少納言の「枕草子」には、あの虫は「鬼が捨てた子」とあるらしい。この「鬼の子」が「チチヨ、チチヨ」(これは「父よ、父よ」ということでしょう)と鳴く、という。「簑虫鳴く」は、次に紹介する芭蕉の句にもあるように、秋の季語にもなっているが、ミノムシは本当に鳴くのだろうか。知っている人がいたら教えて下さい。
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 芭蕉
蓑虫は悄々弧々とぶら下がり 細木芒角星
蓑虫の父よと鳴きて母も無し 高浜虚子
蓑虫の留守かと見れば動きけり 星野立子
鬼の子の宙ぶらりんに暮るるなり 大竹多可志
芭蕉以後みのむしの聲は誰も聞かず 島谷征良
カマキリもミノムシも、どこか寂しげではあるが愛嬌もある。暮れゆく季節、秋の気配の中で生きるからか。
季語について書かなければ、と日頃から思っていると、やはり自ずと自然の現象に注意が向く。永井荷風の旧宅の近く、市川・八幡から本置き場を移動、越して来た習志野市の実籾は、ちょっと信じられないほど地形に高低差があり、崖が多い。
その崖に竹林が生い繁ったり、葛の花が垂れたり、彼岸花が咲いたりする。また、崖の途中の、わずかな平地には、どこから種が飛んでくるのか、季節ごとの草花が色とりどりの花を咲かす。
また、引っ越して間もない、目新しい住宅地なので、歩きながら人の庭にも目が行く。今、目につくのは、赤い南天の実、ザクロの実、あるいはピラカンサのおびただしい金赤の実などだ。
ハナミズキの赤い実も少し前まではなっていたが、冷たい風が吹き出して、実は目立たなくなり、葉も赤紫に変色しつつある。これを“紅葉”というのはちょっとツライ。イチョウなどは、(早めの寒風に付き合ってられるか)、という具合で、依然としてまだ青い葉をつけている。
先日、本置き場の部屋へ行くために、本のつまったビニール袋をぶら下げてアパートの階段を上がって行こうとしたら、鉄の踏み面に、小さな赤い実が一つ、落ちていた。南天の実だ。しかし、このアパートの植込みには南天はない。もちろん、階段の上の通路にプランターなどない。
そうか、多分、鳥が喰わえて、なにかのひょうしに落としたのだなと思った。
また、舗装された道に、これは楓(トウカエデ)? の葉が落ちている。近くの街路樹にこの木はない。(一本裏のビル街の植栽にあった)。
変調はなはだしい、近年の季節の移り変わりだが、すでに一の酉は過ぎ、この原稿を書いている今日は二の酉。次の三の酉が来れば、確実に年の暮れの気分となる。
一カ月前の三十度を超したころ、ぼくは何をやって日を過ごしたのだろう。今年の夏の、あの暑くて長い日々の記憶がほとんどない。ただ、自分なりに精一杯の毎日であったような気はするのだが……。