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新・気まぐれ読書日記 (46) 石山文也 孤道

「浅見光彦シリーズなどで知られる作家、内田康夫さん(82)が休筆宣言」という気がかりなニュースが3月中旬に一斉に報道された。一昨年夏に脳梗塞に倒れ、小説の執筆が難しくなったという。毎日新聞夕刊に連載していた『孤道』もやむを得ず休載になっていたが“未完小説”として毎日新聞出版から出版されるというので珍しく発売前に書店に注文した。サラリーマン時代から同シリーズの全作読破を公言しているから心が動いたのである。その割にはこの『新・気まぐれ読書日記』でお目にかかったことはないなあと言われる方もあろうがそこはお許しいただきたい。堅苦しい方針などはもとよりなく、なるべく多いジャンルから取り上げることにしているだけだが、いくら名探偵・浅見の推理が冴えたとしてもミステリーだから詳しく書くと<ネタバレ>になるので紹介しにくいということもある。

内田康夫著『孤道』(毎日新聞出版刊)

言い訳はともかく、ご存知、浅見光彦は推理作家としてデビューした内田が生みだした若きヒーローである。甘いマスクで長身の33歳独身、雑誌『旅と歴史』に紀行文や旅のルポを寄せるフリーのルポライターでありながら多くの難事件をスピード解決してきた。各テレビ局の人気ドラマとして水谷豊、榎木孝明、辰巳琢郎、沢村一樹ら多くの俳優が光彦役を演じてきた。榎木はその後、兄で警察庁刑事局長の陽一郎役も。母の雪江未亡人役といえば先日亡くなった野際陽子を思い出す。母と兄一家と東京都北区西ヶ原の屋敷に居候しているが取材に行った先々で事件に巻き込まれるだけでなく探偵としての実力を見込まれて事件解決に向かうケースもある。ところが浅見のことを知らない第一線の警官から「あやしい奴」と取調室に連れ込まれて身元照会され、兄が警察庁の刑事局長と分かった途端に待遇が一変するという<お決まり>のシーンは「このお方をどなたと心得る、控えおろう!」というあのセリフと印籠の登場で水戸の御老公とわかる<水戸黄門の現代版>と言えなくもない。

浅見光彦シリーズとしては3年ぶりの新刊となる『孤道』は世界遺産の熊野古道が舞台。最初の事件は和歌山県田辺市の熊野古道中辺路にある人気スポット「牛馬童子像」の首が何者かによって切られて持ち去られる。高さ55センチ足らず、牛と馬の背に跨った法衣姿の石像はとりわけ女性ファンが多いことでも知られる。この事件を知り合いの田辺市役所の鈴木女史から聞いた大毎新聞田辺通信部の若手記者、鳥羽がスクープを飾る。鳥羽は東京生まれの東京育ち。東京本社の採用で初任地が和歌山支局だったが、定年間際のベテラン通信部記者が体調を崩して急遽補充が必要になったため支局長から「肴は旨いし、女性は美人で人情がいい。とりあえず1年ばかり」という条件に乗せられてやってきた。女史とのパイプも前任記者からの引き継ぎだった。

牛馬童子像の損壊事件が全国ニュースとなったことから浅見家では兄の陽一郎や母の雪江未亡人が話題にしていたところへ光彦が懇意にしている「軽井沢のセンセ」から連絡が入る。用件は下半身に原因不明の違和感があって、自身に代わり「紀州の熊野権現」に病気平癒の代参に行って欲しいというものだった。センセは「熊野では浅見ちゃんにぴったりの事件が起きているし、お礼はちゃんとする。ついさっき、カミさんが銀行に行って口座に振り込んだはずだ」とたたみかける。さらに事件を報じる記事の署名は何と浅見の大学の後輩の鳥羽だった。途中、京都で一泊した光彦が鳥羽に連絡を取ると、こんどは殺人事件が起きていた。海南市で不動産業、八紘(はっこう)昭建を営む女史の夫の義弘が大阪市中央区の淀川に浮かんでいるのが発見される。後頭部に打撲痕、頸部にロープで絞められた痕跡があるところから何者かに殺されて遺棄された殺人事件と断定された。現場は熊野古道の大阪側のスタート地点、八軒家の船着場跡近くだったことから「八軒家殺人事件」として天満橋警察署に捜査本部が置かれたことがわかった。

義弘は8年前まで田辺市役所に勤めていて職場が同じだった女史と結婚したが、父親の急逝で実家の家業を継いだ。鈴木家は全国の鈴木姓の総本家のひとつ、藤白鈴木家に連なる名家で祖父、義麿の時代には和歌山県だけではなく大阪府北部から京都府南部、兵庫県東部に跨る広大な農地や山林を保有する大地主だった。その大部分は軍用地として接収され、戦後の農地改革で失われたが海南市に残る鈴木屋敷はすぐ隣にある藤白神社の神域として残された。浅見に鈴木家の歴史をレクチャーしてくれた書店主の門脇は義弘の幼馴染で事件の背景は鈴木家が所有していた不動産にあるのではないかと示唆する。藤白神社の大谷宮司は半年前に義弘から預かったという祖父、義麿が大学ノートに残した段ボール箱入りの日誌類を託して事件の究明を頼んだ。

ここまでがミステリーの<つかみ>というか序盤、呼び込みなら「はじまり、はじまり」と声をあげるところだ。

神童と評された義麿がブルーブラックのインクの細かい字で大学ノートに書いた日誌は中学2年生の13歳の時から残されていた。書き出しは

「僕はその時真っ暗闇の底に居た。闇がしきりに揺れて居る。大きく左に右に上下に揺れて居る。一體何が起きたのか判らない」とあった。

浅見はこれを地震に遭遇した記憶ではないかと直感した。調べてみると義麿が9歳の1927年3月7日に兵庫県北部を震源とする北丹後地震が発生し海南市でも強い揺れが観測されたことがわかった。これをきっかけに地震に関心を持つようになった義麿は「地震少年」として育っていく。現在も京都大学の地震観測所がある高槻・茨木市境の阿武山(あぶさん)近くに鈴木家の別荘があり、観測所の建設を進めていた理学部の森高教授と知り合いになる。中学の夏休みにはその建設現場の飯場にも出入りした。教授の「お弟子」であり、大地主である鈴木家の「お坊ちゃん」だったから作業を仕切る人夫頭の竹さんからも可愛がられた。竹さんは南紀・田辺の出身で鈴木家や藤白神社のこともよく知っていた。

ところが工事現場でやっかいな「事件」が持ち上がる。地震計などを設置するトンネル掘削が古墳の石棺に阻まれて工事がストップしてしまう。ある夜、義麿と竹さんが石棺を運んだ倉庫を窓越しにのぞくと森高教授がカナテコで石棺の蓋を開けようとしている。外まで聞こえるようなギイという音を立てて蓋ははじけ飛び二つに割れた。教授は棺の中に両手を差しこんで西瓜程もありそうな丸い物体を取り出すと近くの池の方角へ向った。のちに阿武山古墳と呼ばれることになるこの古墳は、すわ天皇陵かと騒がれたものの被葬者は藤原鎌足ではないかということに落着いた。天皇陵ではなかったこともあって宮内省も関与せず、石棺は再埋葬され地震観測所は完成、義麿はその後、京大に進むが専攻したのはなぜか地震学ではなく考古学だった。

そして再び現代へ。幸い牛馬童子の首は熊野古道から遠く離れた大阪府高槻市の今城塚古墳公園で発見されて無事戻ってきて一件落着した。ところが鈴木家の葬儀に八紘昭建では唯一の社員で、浅見らに社長が行方不明になる直前の様子を話してくれた松江が姿を見せず、葬儀で留守だった鈴木家には空き巣が入る。

ちょうど320ページ、あとわずかで上巻が終わるボリュームに思えるが「軽井沢のセンセ」こと内田を病魔が襲った。

「ここまでお読み下さった方々へ―あとがきに代えて」では

2015年夏、僕は脳梗塞に倒れて、左半身にマヒが残りました。以降リハビリに励みましたが思うようにはいかず、現在のところ小説を書き続けることが難しくなりました。(中略)『孤道』を発表したい、しかし今の僕にこの続きは・・・と思いついたのが、未だ世に出られずにいる才能ある方に完結してもらうということでした。思えば僕が作家デビューしたのも、思いがけないきっかけでした。1980年、当時の仕事の営業用に自費出版した『死者の木霊』が、ひょんなことで評論家の目に止まったのでした。そういうこともあり、世に眠っている才能の後押しができれば・・・と。うれしいことに毎日新聞出版、毎日新聞社、講談社、内田康夫財団が<『孤道』完結プロジェクト>を立ち上げてくれましたという口述筆記を寄せている。

帯には内田康夫「休筆宣言」。『孤道』完結プロジェクト、始動!に続いて、この物語の<完結編>を募集します。最優秀作は本として出版します。と赤色の大活字が躍る。

作品の発想のきっかけについて内田は、牛馬童子の頭部盗難事件から幕が開いた物語は戦前に起きた阿武山古墳から持ち去られた被葬者藤原鎌足の出自を示す何か、それは考古学的にも歴史的にも決定的な証拠で正倉院御物にもなろうかというお宝だったはず。「義麿ノート」を通して彼のロマンスや成長過程を描きたかった。現代の事件とノートの絡みに光彦はどういう道筋をつけるのか。謎をこれからどう収束させるかという前段で中断となったのはいかにも残念。牛馬童子の首と殺人事件に鎌足の謎が絡んだぼくの作家生活最大の傑作になるのではないかと考えていたと吐露している。

巻末にはくわしい募集要項と主要参考文献約20冊の紹介もある。

実はうちのカミさんも熱烈な浅見ファンなので、私の読み終わるのを急かして『孤道』を読了した。珍しくこれからの展開予想を聞かれたのであれこれ推理したことを披露したところ「その程度じゃ応募しても間違いなく無理だろうけど、完結編はぜひ買ってきてね!」ですって。

ではまた

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