池内紀の旅みやげ 1
① —だるま塚— 宮城県蔵王町平沢
宮城県蔵王町は蔵王山の東の山麓にあたる。そこの平沢という集落に「弥陀の杉」とよばれる大杉がある。樹齢約九〇〇年というから平安末期に根を下ろしたことになる。樹高約四十五メートル、幹まわり十メートル。多少とも老木のきざしはあるが、いまなおていていとそびえ、たくましく枝葉をのばしている。
ただし、見ものは大杉ではない。巨木の足もとにある「だるま塚」である。まんじゅう型をしていて、正面の石は半月を二つ合わせたような楕円形がくり抜いてある。まわりを十五の石碑が、まるで塚を守るように並んでいる。
「だるま塚」といっても達磨(だるま)大師を祀るものではない。世におなじみの「だるまさん」は大きな布袋腹をしている。これにちなみ大きな丸いお腹の持ち主、お産の近い妊婦をあらわしていて、正面の石にみる楕円は女陰である。安産祈願の塚であって、現在もお参りにくる人がいるのだろう、私が訪れたのは寒い冬のさなかだったが、左右の花筒に切り花が差してあって、澄んだ水が供えてあった。
江戸末期だが、当地に五十嵐汶水(ぶんすい)という産科医がいた。早くに西洋医学を修得したが、お産は産婆の時代であって人々に受け入れてもらえない。あいかわらず貧乏人の子沢山で、表沙汰にはされないが「間引き」が横行している。無理な出産で産婦が若くして死ぬケースがあとを絶たない。産児制限、計画出産、そのための安産を学ばせる方法はないものか?
汶水医師は古くから各地にある「講」という組織に目をつけた。グループで「だるま講」をつくり、集団で学べば、まわりから白い目で見られることもない。講には集会はつきものだから、年に一度、大杉の根かたで「だるま祭り」を挙行する。
明治になって「だるま講」は急速にひろまり、宮城県南部から福島県にかけて、あちこちでグループが誕生した。安産だけでなく、生死のこと、世の中のこと、暮らしのことを学び合う。目に一丁字もない人々の多かったころであれば大切な要点は歌にして、お経や和讃のように皆で合唱しておぼえこむ。それをカタカナで石に刻んで塚のまわりに配置した。
「安産教喩祭」
杉の根かたには石が据えられている。安産信仰の祭礼にしたのは、深い知恵があってのことだろう。「弥陀の杉」の名は、すぐかみ手に阿弥陀堂があって、丈六の仏が祀られていたせいである。大杉は参道の杉の一つだった。民衆がグループをつくったり、集まったりすると、すぐさまお上(かみ)から警戒の目でみられたが、ポンポン腹の女たちのお祭りとあれば、こともなく集まれる。天下の大杉が上から枝をさしのべて、女たちを庇護していた。
五十嵐医師には弥陀の杉が自分たちの運動の守護神のように思えたのかもしれない。根かたには安産教喩の石と並んで「遺願」と太い字を刻んだ石が据えてある。
「村役方 此大杉ヲ永世伐ラセナヘデ下サレ」
晩年に建てたようで、あわせて辞世の歌一首がそえられている。
ワレトイフ ソノミナモトヲタツヌレバ オトモカモナキ
カケホーシカナ(我というその源を訊ぬれば音も香もなき影法師かな)
なぜか戒名銘は、三角の石にななめに刻まれていて、読むときは首をかしげるかたちになる。一つ穴のある淡い朱をおびた石で、汶水さんにはことのほかお気に入りだったかもしれない。
阿弥陀堂は取り壊され、丈六の仏はしも手の立派なお堂に移されている。平沢の西かたの村田町が「蔵の町」をキャッチフレーズにしているのは豪壮な蔵がどっさり残っているからだ。江戸のころ紅花や生糸はまず村田に集荷され、そののち最上川の河港町・大石田へと送られた。平沢集落はそんな輸送路の宿駅であって、人が集まり、また散っていく、安産信仰の聖域をつくるにあたり、五十嵐汶水は、きわめていい場所を選んでいた。
「だるま講」の発案、実践の方法、辞世の歌からも味わい深い人となりが見てとれる。旅をしていると、世に隠れた地の塩のような人と出くわすものである。
[アクセス:仙台駅前から遠刈田(とおがった)温泉行きのバスに乗ると、村田町、蔵王町を通っていく。蔵王町役場前でミヤコ・バスに乗り換えて「平沢」下車。徒歩十五分]