新・気まぐれ読書日記 (1) 石山文也 空白の五マイル
なぜ「新」が付いているのかと訝られるかもしれないので説明しておくとこれまでミニコミ誌でちょうど65回続けてきた『気まぐれ読書日記』を、そろそろ打ち止めにしようと思っていたところ「続けて書かないか」とお誘いを受けその気になった次第。ならばと題名に「新」を付けて心機一転を期して引き受けた。もうひとつ、石山文也って何者?と言われそうだから自己紹介すると「ブロガー」かな。「ブログを書いている人」みたいな。職業かというとそれで食べているわけでもないので、みたいな。よくわからん?ですか。最近はやりの肩書です。テキトーに読んだ本をテキトーに書き飛ばす「肩の凝らない読書日記」スタイルですから、まあテキトーに読み飛ばして下さい。
記念すべき第1冊目にどの本を取り上げようか迷ったが好きなノンフィクションにする。『空白の五マイル―チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(角幡唯介、集英社)。角幡は76年北海道生まれ、早稲田大学探検部OBで朝日新聞社に入社したが08年退社、ネパール雪男捜索隊に参加した。探検部時代の事前調査を経て02-03年、09-10年に計4回ツアンポー峡谷を踏査、この作品で2010年の第8回開高健ノンフィクション賞を受賞した。
チベットはご存知でもツアンポー峡谷は初めて聞くという方がほとんだろう。インドの北にあるのがネパール、北側には世界最高峰のエベレストをはじめ8千メートル峰が連なるヒマラヤ山脈がある。それをさらにいくつもの峠で越えるとチベットだ。ネパールは王国=ネパール王国のままだが、チベットは中華人民共和国の自治区でツアンポー峡谷はその中心を西から東へ流れてヒマラヤ山脈の東端を大きく迂回するようにえぐりプラマプトラ川となって南流、インドのアッサム地方からヒンドスタン平原を流れ、バングラデシュを経てはるかベンガル湾に注ぐ。
とはいえツアンポー峡谷の<下流>についてこのように紹介できるようになったのはようやく20世紀になってからだ。ヒマラヤの険しい地形や世界一といわれる圧倒的な水量だけでなく中流域は深いジャングルに覆われている。しかも攻撃的な未開部族が支配する地域だったこと、その後もチベットがかたくなな鎖国政策を続けたこともあって近代文明の挑戦をことごとく拒み続け秘境のまま残されてきた。
19世紀後半になって積極的に辺境地域の調査に乗り出した英国も調査主体のインド測量局が密かに雇って探検に向かわせたのはバンディット=密偵と呼ばれた人々だった。最大の成果は川の下流はプラマプトラ川につながるということと屈曲部に幻の巨大滝があるとされたものの探検隊の挑戦をことごとく拒み続けてきた。
1924年に英国のプラントハンターのフランク・キングドン=ウォードがコーダー卿とともに探検隊としては初めて峡谷の無人地帯を突破し「虹の滝」と「プラマプトラの滝」を発見した。プラントハンターとは植物の種子や草木を採取し西洋の園芸産業に紹介する植物専門家で「そこに山があるからだ」という言葉を残したマロニーがエベレストで行方不明になった年だ。しかし、彼らはあと5マイルを残して引き揚げたため「空白の5マイル」と呼ばれて20世紀に残された数少ない未踏域として探検家の目標になった。5マイルはわずか8キロだ。
角幡が初めてツアンポー峡谷を探検したのは02年12月だった。その4年前の大学4年生当時、探検部の仲間と峡谷入口の町まではやってきたが単独行は初めてでしかも冬だった。ジャングル地帯に隣接していることもあり、夏は雨が多く川も増水しており気温が高くてヒルや害虫、毒蛇がうようよいる。その点、冬は減水期で河原も川底になるし蛇も冬眠しているので寒さや積雪のデメリットを考慮に入れても探検には適している。
途中まではポーターとして雇った現地の村人が一緒だったが、近年の大増水で吊り橋は流され残ったワイヤーロープに鉄の滑車を取り付けて数十メートルもある谷を渡っていく。この村人からは以前この渓谷でカヌーが転覆して遭難した同じ大学の先輩の名前を聞く。「ヨシタケ」と聞いたがカヌー部にいた武井義隆さんで探検部の仲間と調査にやって来たのと同じ年だった。よく知っていると答えたこともあって気心が通じ、ようやく集落のはずれまで案内してもらいそこからは単独行となった。ところが初日の日没後、崖上の斜面を下ろうとして腐った木の根を踏み、それが崩れて斜面を転がり落ちた。
どうなったんだ、と思うが次の章の「若きカヌーイストの死」で遭難事故の詳細が克明に紹介される。何度もの捜索は結局空振りに終わり両親の元へ届けられたのはテレビ番組の取材で現地に入ったディレクターが持ち帰った武井さんのライフジャケットと映像だった。ライフジャケットは拾った下流の住民から譲り受けたもので映像には集落のはずれに咲く紫色のコスモスが映っていた。遭難翌年に川を見渡せる丘の上に慰霊碑が建てられそこに父親がまいたコスモスの種が年を経て咲いていたという見事な後日譚だ。
「大きな衝撃とともに私の体は突然止まった。最初は何があったのかよくわからなかった。少しぼーっとしてから後ろを振り向くと、背中の横に大きな松の木が立っていた」「滑落した距離は15メートルほどだろうか。一瞬前まで奈落の底へ転がり落ちていたはずなのに、信じがたい幸運に恵まれ、私は再び自分が明日のある世界にいることを知った。少しでも左右にずれていたら体は止まらず、きっとそのまま滑落を続けていただろう。そして周りにはこれほど立派な木はほかになかった。大木の根元に横たわりながら、私は少し冷静になった。こんなことを続けていたら、そのうち死んでしまう」
少し長く引用したがこの場所は10年前のカヌー遭難事故の際に助かったもう1人が2キロ近くも流され、ようやく這い上がった岩棚の近くだった。
探検記の魅力はその困難さや大変さを本を読むことで居ながらにして味わえることだが、この偶然の連鎖により読者としてはこれから始まる著者が向かおうとしている挑戦の困難さに身震いすら感じて引き込まれてしまう。
ようやく河原に下り、1日上流に歩くと硫黄のにおいが漂って砂地に温泉が湧いていた。そこにテントを張って温泉に入ろうとしたら全身が赤いぶつぶつに覆われているのに気づく。前夜、滑落した場所でビバーグ(緊急野営)した時にダニに咬まれたのだ。そこからさらに2日、谷を進むと川幅がわずか20メートルから30メートルにせばまっていた。チベット高原を横断してきたアジア有数の大河は、このヒマラヤの最奥で山々を切り開き、かんぬきのおりた扉を強引にこじ開け、火を噴くように白い飛沫をあげていた。両側の岸壁ほとんど垂直に近い傾斜で800メートルほどせり上がっていてそこを「門」と名付けた。「そこは門のように両岸がそそり立ち、空白の5マイルに入るための関門にほかならず、こじ開けた先には伝説的な地理的な空白部が眠っているのだ」。
2日間あらゆる方法でこの門に挑戦したが突破はできず、同じルートを3日かけて村まで戻り、年が明けた03年1月、こんどは村人2人を連れて上流部から峡谷を目指した。ここで確認したのが98年に米国の探検隊が見つけた「幻の滝」でキングドン=ウォードが発見した「虹の滝」のわずか1キロ下流にあった。米国隊の滝発見まで74年がかり、それもあって「レース」の章で近年の中国、米国などが峡谷で繰り広げた発見レースが紹介される。
3回目の探検は村からラサに買い物に出かけたりしたあとの1月末に再開。「門」のさらに上流から峡谷の核心部に下り、空白部分を辿るというものだ。この単独行で未発見だった2段15メートルの滝や巨大洞窟などを見つけた。踏査したのは空白の5マイルのほとんどで残すところはあと2キロ少しということになった。
帰国した角幡は入社が内定していた朝日新聞に記者として入社する。26歳、初任地は富山支局で、黒部川ダムの排砂問題などの環境問題に取り組み埼玉県熊谷支局を最後に5年間の記者生活を辞め再びツアンポー渓谷の探検に戻ることに決めたのだ。こんどこそ空白の5マイルを含む約60キロの無人地帯を完全に踏破するという壮大なものだった。それは過去の探検隊の全てが挑戦し、ことごとく失敗していた。
そして最後の旅。08年の暴動以来、省都ラサにしても政府の許可を得た旅行ツアー以外は外国人の立ち入りが極端に制限され、ほとんど全域が未開放地区とされていた。中国・西寧から開通したばかりの西蔵鉄道に乗り、ラサに着いてみたものの探検の許可など下りるあてもない。無許可で潜入したツアンポー渓谷で想定外の寒波に見舞われ、生死をさまよう3週間の彷徨の末、かろうじて辿りついた辺境の村で警察に通報され拘束される。
「私はツアンポー渓谷に裸一貫で飛び込み、命からがら逃げ出した。その体験が多くの冒険者の行為の、かなり深い部分を理解出来た感触がある。(中略)なぜ命の危険を冒してツアンポー渓谷を目指したのか、その問いに対して万人に納得してもらえる答えを、私自身まだ用意することはできない。そこはまだ空白のまま残っている。しかしツアンポー渓谷における単独行が、生と死のはざまにおいて、私に生きている意味をささやきかけたことは事実だ」。そして「冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない」と。
ではまた