池内 紀の旅みやげ (2)-鉤十字-金沢O町
金沢市O町の表通りには、重厚な蔵つきの町屋がのこっている。かつては市中きっての繁華街で、老舗の呉服屋や和菓子屋、銀行が軒をつらねていた。
裏手は閑静な住宅街で、生け垣や土塀をそなえている。古木の繁りぐあいからも、明治・大正のころから地割りはかわらなかったのではあるまいか。なかに医院がまじっていて、ホーローびきの表札に○○醫院と銘打ってあった。わきに木の表札があって、女性名が出ていた。父親の医業を建物ごと娘が引き継いだらしい。午後の診療時間が始まったばかりで、玄関が開け放ってある。なにげなく通りすがりに目をやったところ、床にくっきりと鉤十字が見えた。
「…………?」
不審に思って、そっと踏み石づたいに近づいた。たしかに鉤十字である。ドイツ語ではハーケンクロイツ。。ヒトラーの率いたナチ党が党のマークにしたことから二十世紀の歴史に不吉な紋章のようにしてしみついている。
白タイルの四方を濃紺のタイルで飾り、まん中に淡いブルーのタイルで鉤十字が浮き立つようにした。タイル職人が勝手にこのような奇抜な装飾をつけるはずがないから、依頼主がデザインを渡して注文したのだろう。年代がほぼわかる。一九三〇年代であって、軍国ニッポンとナチス・ドイツががっちりと握手をしたころだ。歴史年表をかりると、つぎのとおり。
一九三六年 日独防共協定調印
一九四〇年 日独伊三国同盟条約調印
大日本帝国がヒトラーのドイツと、またムッソリーニのイタリアと運命共同体に入ったころである。
○○醫院の当主はきっと英雄ヒトラーを崇拝していたのだ。実際、世界中がそのように見ていた。第一次世界大戦の敗戦国ドイツを立て直すために救世主のように現われた。政権についたのが一九三三年一月であって、またたくまに政治的混乱と社会的不安をしずめ、失業者を大幅にへらし、アウトバーンの建設、安価な国民車(フォルクスワーゲン)の製造など、目をみはるような新政策を実践している。一九三六年のベルリン・オリンピックは名実ともに大成功を収め、ナチス・ドイツの威力を世界に知らしめた。当時ドイツだけではなく、世界のいたるところに鉤十字の旗がひるがえっていた。それは希望と勇気の象徴だった。
一九三九年に東京・上野の松坂屋で「日独伊親善 温泉厚生利用展覧会」なるものが催されている。三国同盟が調印される前年であって、親善の気運が高まっていたのだろう。何を展示したのか不明だが、そこに日の丸と並んで鉤十字が飾られていたことはたしかである。同じような催しはほかにも多くあって、そのつど鉤十字の旗が「世界に冠たるドイツ」の国歌に合わせて掲揚されていた。
古都金沢の内科医はヨーロッパの風雲児との連帯のあかしのようにして、診察室の入り口の床に英雄の率いる党のマークをタイルで描かせた。やがて第二次世界大戦となり、ナチス・ドイツは当初は全ヨーロッパを圧倒したが、やがて連合軍の進撃にあい、ヒトラーは官邸地下壕で自殺をした。悪夢のような時代が終わり、ユダヤ人の大量虐殺をはじめとするナチスの暴虐が明るみに出た。鉤十字はたちまち悪のマークに転落した。
「日独防共協定」が成立したとき、日本人はドイツと肩を組み合った気持ちでいたかもしれないが、ヒトラーはさして協定を重視も尊重もしていなかった。そもそもヒトラーが信奉した「アーリア人優生説」によれば、黄色人種の日本人は劣等民族であって、政治的理由によりお目こぼしにしたまでである。それが証拠に、ともに共産主義と対峙することをうたった「防共協定」を結びながら、三年後の一九三九年ヒトラーはスターリンと手を結び、「独ソ不可侵条約」に調印した。その際、日本側にひとことの断りも弁明もなかった。日本政府はうろたえ、茫然自失のありさまで、ときの平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇なり」と世迷いごとのような声明を出して総辞職した。
ヒトラーにすれば、またスターリンにとっても、平然と同盟国をを裏切るなどは何でもない。当面の利益のためにポーカーゲームのような駆け引きをしたとき、ヒトラーには同盟国日本などまるで眼中になかったのだろう。
タイルの床は心情主義と情緒過多の日本人の感性をよく示している。医院の改築などで姿を消す前に、床ごとそっくり保存したいほどのものである。
[アクセス⁑個人宅(医院)なので省略]