新・気まぐれ読書日記 (3) 石山文也 オン・ザ・ロード
池澤夏樹個人編集の『世界文学全集』30巻が完結した。河出書房新社の創業120周年を記念して発刊されてから3年半、全集は毎日出版文化賞を、池澤氏も朝日賞を受賞した。20世紀に生まれ21世紀を生きる同時代の作家が切り取り見せてくれる世界の文学の現在。アジア諸国からロシア、アメリカ、ヨーロッパ、東欧諸国、ラテンアメリカ、南米、アフリカ、そして西インド諸島からも作品が選ばれた。自身も作家として全力で疾走しながら40年近くも膨大な作品の書評に携わり、あらゆる「文学」を読み込んできた氏だからこそ果たせた企画だろう。
これまで書いてきた『気まぐれ読書日記』では「全集」を取り上げたことはなかった。当たり前だが冊数が多いもの。その気になったのは「酒代や昼食を抜いても」本代に回した父のことをなぜか思い出したから。地方公務員の安い給料では養母と妻、つまり母とわれわれ兄弟3人を育てるだけでも余裕はなかったはず。年に何回かの宴席で顔を赤くして帰ることはあっても同僚と途中で一杯引っかける習慣はなかった。<いける口>だったのにその誘いを断ってでも本を買った。週刊誌は『サンデー毎日』のクロスワード・パズルが楽しみで買って来た日は遅くまで推敲を重ねていた。
「三種の神器」といわれた自動車はとうとううちには来なかったし、テレビや洗濯機などの家電製品が来たのも近所で一番遅かったが「日本文学全集」は早くから本棚を飾っていた。文学全集が<教養の象徴>としてもてはやされたあの時代、外国文学のほうはへミングウェーの『老人と海』、ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』、ケッセルの『晝顔』など何冊かはあったが全集はなかった。ロレンスなどは子供(早熟だった長男坊の私)に見つからないよう背表紙が裏向けにしてあったが几帳面な父にしては本の並べ方が不自然なのに気づいた。盗み読みしたあとは元通りに戻しておいたけど。もっともその種の本は他になかったから翻訳を巡る性描写の裁判が「表現の自由」として注目を集めたので、ちょっとのぞいてみようという程度の動機だったか。外国もので唯一好んだのはノンフィクションで、一時はリーダーズ・ダイジェストを定期購読していたし「世界ノンフィクション全集」は2種類が並んでいた。いやいや、父のことを書いたのはうちには「世界文学全集がなかった」という理由に通じるからでもある。こんなことを言ったのを覚えている。「世界文学全集といったら例外なく長編の古典が何冊も続く。しかも外国のは原本をそのまま読むわけではないので退屈だ。翻訳だっていいのか悪いのかわからんし、だらだらとやたら長いばかりじゃないか」と。とんでもない言いぐさでもあるが一面の真実は突いていたのかもしれない。
第2次大戦後、権威を失った父親世代に代わって自由な発想の若い世代が世界を舞台に活動を広げ、新しい文体で次々に作品を発表していった。女性作家も新しい価値観で自らを主張し始め、小説の舞台もパリやロンドンだけでなく辺境の地までもが舞台となった。植民地からの独立は新しい国づくりと同じように新しい文学を生みだす土壌にもなったし、人々が生まれた場所、生まれた国だけに縛られなくなったことも大きい。内戦、革命、亡命、難民・・・国家や家族の枠組みが外れて人々は自由を求めて移動し続けた。
新大陸アメリカにしてもそうだ。第1巻、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』はそうした20世紀のアメリカを象徴する作品といえる。フランス系カナダ人の両親との間にマサチューセッツ州で生まれたケルアックは、コロンビア大学に入学したあと大陸横断のヒッチハイクの旅に出る。その体験が作品に投影されている。2人の若者がアメリカ大陸を何の用もなく行ったり来たり、アメリカに留まらずメキシコシティーまで足を延ばす。移動手段は汽車やバスもあるがもっぱら車、ピックアップのたぐいから車を運搬する長距離の代行運転、ヒッチハイクまでさまざまな「車」が登場する。移動が好き、車の運転は<快楽>だからハンドルを握るが、運転そのものは<苦役>なのでやたらとスピードを上げる。夜はバカ騒ぎのパーティー、安住に反抗してとはいえ移動そのものにほとんど意味はない非生産的な若者の姿が描かれる。題名をあえてカタカナのままにしたのは「道の上に<旅の途上の>自分たちがいる」というメッセージを込め、同時に「移動する人たち」に目線を定めたこの全集そのものの方向性を指し示していると思える。
池澤は「父に反抗する『チボー家の人々』は役割を終えた。へミングウェーももう要らないと思った。でも、フォークナーは南米の作家を奮起させたし、カフカは今も影響を与え続けている。だからフォークナーは『アブサロム、アブサロム』を、カフカは『失踪者』を入れた。訳者の技量もこの20年で飛躍的に上がったと保証できるし、過半数の作品を初訳、新訳、全面改訳とした」と言う。例えばギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』は池内紀の新訳、同じく英国モダニズムを代表する女性作家ヴァージニア・ウルフの流れる文体の『灯台へ』は鴻巣友季子の新訳である。
正直なところ「全集」を取り上げたのは初めてだと書いた。おいおいと言われそうだがそれでも紹介する気になったのは、ある作品がこの全集に収録されたのを偶然に知ったからである。それを中心に紹介しようと書き進めているうちに3月11日の東日本大震災という未曽有の災厄が発生した。『新・気まぐれ読書日記』がこの第3作目まで間が空いたのも、連日のニュース報道や抜き差しならない福島原発の事態推移が気がかりでかなりの時間を取られてしまったというのが言い訳ではある。ということでここまでを前半とし、次に続けることをお許しいただければと思う。
ではまた