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池内 紀の旅みやげ (4) 千町の棚田ー愛媛県西条市

愛媛県西条市のキャッッチフレーズは「水の都」。南に広大な石鎚山系が控えていて、そこから大量の水が送られてくる。川になって流れているのではない。伏流水として地下を走っている。当地では「うちぬき(打ち抜き)」と呼ばれているが、鉄管状のものを打ちこむと水があふれ出る。そのせいで西条市の水道普及率は五〇%、市民の半数は水道代不要の井戸から汲み上げている。

伏流水の源流をさぐっていくと、おのずと山に入りこむ。石鎚山は正確には天狗岳ほかの峰々から成り立っており、瓶(かめ)の森、寒風山、筒上山、笹が峯……スケールが大きすぎて、どこを源流とするか意見が分かれるところだ。

伏流水となる手前で地上に噴出しているところがあって、千町(せんじょう)がその一つである。伊予冨士と寒風山の前山がつづく一角、谷合いに噴き出したのが一筋の水の帯として大きな山の背を走り下る。

いつのころか、この水脈に気づいた人がいた。山の背は南を向いており陽当たりがいい。斜面を切って石垣を積めば田畑ができる。長い歳月の中で、南面全域が棚田になった。西条市の千町棚田は全国で有数の規模とひろがりをもっている。

知識としては知っていたが、足を運ぶまで信じられなかった。いや、足を運んだ途上にも、しきりに首をかしげていた。

駅前からのタクシーは西条市中を抜け出て、加茂川沿いを南へ向かった。上流のダムに水をさらわれて、ほとんどが河原である。途中から脇道にそれて山間部に入っていった。さらに分かれて車一台がやっとの道を、のべつ曲がりながら高度を上げていく。目に入るかぎり山また山、しかも傾斜が急で、稜線が垂直に近いのだ。こんな只なかに田畑や村があろうなどと信じられない。

そのうち「あっ」とおもわず声を出した。杉の林間をすかして、陽の当たる山の背がのぞき、そこに石垣が畳々とかさなり合っている。角度がかわり、一瞬でまたかき消えた。まるで幻を見たような思いだった。

さらに何度か蛇行してから棚田の横手にとび出した。写真で見たインカの遺跡のようだった。石積みが無数の段差をつくり、地面に立つと上には石組みしか見えない。下はなだれ落ちるような谷である。そこで石のワッカをはめたように田がかさなっている。

斜面を平べったい何十ものS字でよぎって道がつづいている。地図には晩茶、土居、岡、宮の道、仙代地、中谷、中尾などとしるされていて、小さな字(あざ)になっているらしいが、よそ者にはどこが境かわからない。お宮や寺のある辺りが最初にひらけたとすると、上下に人が移ってきたり分家がつくられたりしたのだろう。谷をのぼったところが藤之石と名づけられているのは、石が多いからと思われる。黒代の地名もあって、そのせいか、石垣はすべて黒っぽい石でつくられている。両手でかかえられる程度のものを丹念に積み上げた。インカの遺跡を連想したのは、まだ田植え前のことで緑がなく、見わたすかぎり黒い石の世界であったからだ。

千町の棚田を見上げる

千町の棚田を見上げる

一番上にあがると全体が見えると思ったのは早トチリで、ほんの足元がのぞけるだけ。人家がポツリポツリと散らばっている。あきらかに一定のエリアごとに家ができていったからだ。厳しい風土であれば一家を養うのがせいぜいで、二軒、三軒とふえると共倒れになる。二男以下は家を出るか、べつのところをひらかなくてはならない。

道自体はゆるやかなS字で、ひと曲がりするごとに眺望がガラリとかわる。田、畑、果樹園、花畑、肥料づくりの小畑といったふうに秩序立っていて、段差を無視すれば一軒の持ち分はけっこう広いのだ。寺に近いところにお屋敷のような大きな家があって、千町地区の庄屋にあたる旧家かもしれない。

棚田群のほぼまん中を斧で削いだように地面が切れていて、水が烈しい勢いで落下していく。現在はコンクリートのつくりだが、かつては田に水を送るとき水路に仕切り板を突き出すようにしたのではあるまいか。棚田全域に水をめぐらすには高度な水利技術が必要だったろうし、石組みが崩れると、自分たちで補修しなくてはならない。生活の知恵として誰もが石積みの技術をそなえていた。そうでなくては生きていけない。

千町からの眺め

千町からの眺め

過疎がはじまり、いわゆる「限界集落」に近いのかもしれないが、少なくとも私が歩いたかぎり空き家や廃屋は見当たらなかった。肥料と苗しろづくりの最中で、顔があうと手をやすめて挨拶の声をかけ、すぐまた作業にもどる。「棚田百選」の一つなどと称するところは観光化していて、眺望のいいところに観光バスの駐車場があったりするが、千町の棚田はあくまで暮らしの場であって、旧来の風格あるたたずまいがよくのこされている。桃の花の咲くころは、文字どおり桃源郷というものではなかろうか。

【アクセス 西条市中よりタクシー往復、約八千円。車で行く人は運転上手でないと難しい】

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