池内 紀の旅みやげ (10) 巨大フグ(山口県・下関市)
カラっ風が吹きはじめダイダイが黄ばんでくると、フグの季節 ── 昔の人はそんなふうに言った。刺身にせよチリにせよ、フグにダイダイはつきものである。透きとおるような白身に黄色のダイダイ、色どりもピッタリだ。仲間と肩を寄せ合って飲屋街を行くとき、誰からともなく声が出る。
「はりこんで今夜はフグといこう!」
多少とも値が張るが、かつては「玉饌」などとうたわれた。「天下の美味フグ」が決まり文句だった。フトコロのはたきがいがあるというものである。
店によって看板に「フク料理」とあったりするが、まちがいではない。以前はフク、フグの二通りの言い方があった。海底の泥土に棲み、浮かび上がって餌を食べるときに泥をふく。そんな習性をとらえて「フク」と言ったのが、いつしか「フグ」と訛った。
「天下の美味」に加えてもう一つの決まり文句が「フグはあたる」だった。内蔵に毒素テトロドトキシンが含まれていて、うっかり口に入ると命を落としかねない。そこから生まれたのが「だまされて はじめて フグの味を知り」。
素人料理ならともかく、現在は調理法が確立しており、プロにまかせていれば心配はいらない。年中食べられる魚であるが、ダイダイが色づく十一月の上旬から十二月、一月にかけてが、とりわけうまい。そのころフグの肉がもっとも締まっているからで、さらにこれを甘みをもったダイダイの一番酢がとびきりの味づけをする。
下関のフグが最高とされている。その辺りの周防灘(すおうなだ)は地形に特色があって、泥土をそなえて海域と急流をもつ海峡とがとなり合っている。よく育ち、よく締まったフグがとれる。
そんな海を見下ろす高台に、巨大なフグが泳いでいた。ブロンズ製で大人三人分ほどに大きく、腹をまん丸にふくらませ、波がしらをかたどった上に目玉を剝いてのっていた。
下関の東の郊外、海沿いの見晴らしのいい高台に春風楼という料亭がある。その正面わきで出くわした。フグ料理の広告のようだが、本来は料理に供してきたフグの供養のためにつくられたようだ。春風楼は老舗の料亭であるとともに、日清戦争後の講和会議の舞台となったことで知られている。明治二十八年(一八七五)のこと。重要な会議には首都があてられるものだが、時の総理大臣伊藤博文は東京ではなく山口県下関市を選んだ。なぜか?
長州人伊藤博文は地形の特徴をよく知っていた。すぐ東に軍都・広島、軍港・呉を控え、大陸に向かう軍艦は目の下の海峡を通過する。大日本帝国海軍の威力を見せつけるのにちょうどいい。事実、講和会議がつづいていた間、毎日のように軍艦が狭い海峡を押し分けるように通っていった。たぶんデモンストレーションを意図してだろうが、作戦がまんまと当たった。清国外交団は脅威を感じたようで、交渉は終始、日本側のペースで進められた。
会食にはフグ料理が使われただろう。当地名産、風味絶佳といわれても、清国外交官は「フグはあたる」ことも知っており、へっぴり腰で口にしたのではあるまいか。軍艦のデモンストレーションともども、心理的な威嚇の効用をもっていただろう。維新の修羅場をくぐり抜けた政治家のたくましい外交術が見てとれる。
古い料理読本には、フグは安心して食べるからうまいのであって、「いまかいまか」と思いながら食べたのではおいしくもなんともない、といった意味のことが述べてある。現在のわれわれには「いまかいまか」がわかりずらいが、フグ中毒の経過を踏まえていて、ふつうそれは、一、口と手先のしびれ、二、舌の廻りぐあい、三、嘔吐の順とされていた。仲間と多少はビクつきながらフグを食べていて、そのうち一人が酒の酔いで舌がもつれただけなのに、「スワきた」とばかり、いっせいに逃げ腰になった。日本の食文化のなかで、エピソードが断然多い食べ物なのだ。
フグ像のすぐかたわらに講和条約記念会館があって、いかめしいヒゲをはやした人形がテーブルをはさみ、しかつめらしく、会議をしている。そんな群像を尻目にむけて、ブロンズの波にドンと乗った巨大なフグが、夕陽をあびながら悠然と空中を泳いでいた。
【今回のアクセス: 下関駅前よりバスで約二〇分、講話記念館前下車。坂道をのぼりつめたすぐ前】