池内 紀の旅みやげ ⒁ 観慶丸商店ー宮城県石巻市
写真では古びた建物としか見えないだろう。レンガ造りのような三階建て。一階部分にガタがきて、ベニヤ板が張りまわしてある──。
ちがうのだ。去年(二〇一一年)三月十一日までは、とびきりステキな建物だった。昭和初期のモダニズム建築の傑作だった。外壁を覆ったタイルだけ見ていっても、たっぷり一時間はたのしめたし、中に入ると階ごとに巧みな工夫がされていた。そこにも眩しいような色タイルがほどこしてあった。
「これは、まるで“タイルの見本帳”のような建物である」
タイルの専門家が全国のタイル建築を訪ねてまわった記録『日本タイル博物誌』(発行・INAX・一九九一年)には、あざやかなカラー写真つきで、「旧観慶丸陶器店(現・陶芸かんけいまる)」として紹介してある。スクラッチタイル、布目タイル、青磁釉(ゆう)タイル、「墨流しのデザイン」タイル、レリーフ・タイル、擬岩石タイル……。一階開口部の支柱、正面一階のショーウインドウ、外観正面二、三部のアーチ窓、外観全景、「産地も釉薬も大きさも多様なタイルをあれこれ取り混ぜて張りめぐらす……。なんて柔軟で斬新な発想だろう」
所在地は宮城県石巻市中央三丁目。こういえば即座にわかるはずだ。死者3182人、行方不明者579人(二〇一二年一月末現在)。石巻市は北上川河口部にあって、江戸の昔から米の積出港として栄えた町である。河口の横手の日和山が燈台がわりで、海寄りは海の文化ゾーン、川寄りは川の文化エリアと分かれていた。二〇メートルをこえる大津波は海沿いを呑みこみ、川沿いを馳せ上がった。海の文化ゾーンの何百という建物、施設のほとんどが姿を消した。川沿いは建物こそ残っているが、生活の基盤である一階部分が根こそぎさらわれ、剥ぎ取られた。いまなお中心部分の九〇%以上が機能不全にちかいのだ。
十年あまり前、取材を兼ねて海沿いから日和山、川の文化ゾーンを丹念に歩き廻った。中州をはさんで両岸をつなぐ長い橋の橋詰に岡田劇場という映画館があった。戦前から戦後しばらくまでは岡田座という劇場で、歌舞伎役者や人気歌手が来演したとか。「岡田劇場五人衆」といって、美空ひばりやジャイアンと馬場、喜劇役者の由利とおるなどの大きな肖像が掲げてあった。
いちばん長く足をとめたのが「観慶丸」だった。小さな百貨店の感じで、一階は陶器類、二階は用品類や化粧品、三階はおもちゃ、文具だったと思う。ロンドンの老舗百貨店のようなゆったりしたつくりで、夏のこと、プロペラ型の扇風機がのんびりとまわっていた。
素人にもタイルの美しさは、ひと目でわかった。色タイルは妖しいまでの深みをもち、レリーフ・タイルが異国の動物や風景を描いている。「観慶丸」というフシギな商店名は、地元の網元から回船問屋に転じた旧家が、陶器店を開くにあたり、持ち船の一つの名をあてたという。建物ができた昭和五年(一九三五)当時、タイルが文化の象徴のようにいわれていて、当主は費用を惜しまず文化の華(はな)としての建物に仕上げたらしい。
中央通りは北上川と平行するかたちで伸びている。巨大な水のうねりは日和山の裾沿いに奔った。中州一帯は壊滅、岡田劇場はあとかたもない。被害は数キロ上流部まで及んでいる。途方もないエネルギーが凶器となって町を襲った。「観慶丸」は嵐の中の船のように濁流にもまれていたことだろう。板囲いのあいだの太い柱がノコギリ状になっていた。そこには『日本タイル博物誌』の著者が舌を巻いた、布目タイルや墨流しデザインや核刻模様が優美な飾りをつくっていたが、もはや面影もない。内部の惨状は目を覆うしかなかったのではあるまいか。
四つ辻のまん前、観慶丸商店と向き会うぐあいに三階建ての古い建物がある。昭和十年代に流行したアール・デコ調の装飾がほどこされ、全体のいかつい感じからして、かつては銀行だったのではあるまいか。それなりに味のある建築だが、軒につけられたバカでかい「自由民主党」の看板が持ち味を帳消しにしている。ついでに見てまわったが、こちらはさして被害が見てとれない。道の左右でこんなにちがうものか。それとも大津波もナマぐさい政党関係は敬遠したのだろうか。
中央通りのかまぼこや名菓の老舗の大半が休業中だが、一つだけ、きちんと開いた店があった。しっかりしたコンクリート造りで、品格のあるインテリア。「観慶丸本店」とある。母船はしっかり町の復興の先導役のようで、なにやら救われた思いがした。
【今回のアクセス:JR石巻駅より川に向かって徒歩十分】