池内 紀の旅みやげ⒄ われらのテナー──山口県下関市
海沿いの国道に小さな標識を見つけた。
「紅葉館(藤原義江記念館)」
フジワラ・ヨシエ? 何やら懐かしい名前である。つづいてオペラ歌手藤原義江を思い出した。まだ日本にオペラが縁遠かった時代に藤原歌劇団をつくり、ひろく世界に羽ばたこうとした。孤軍奮闘して、道半ばで逝った人、そんなイメージがある。
国道からそれて山側の道に入ると、石段の前に出た。かなりの傾斜で上がっていく。右に折れ、さらに石段がつづき、その先に鉄製の門があった。手をかけて押すと、音をたてて開いた。鉄格子の飾りに音譜がくっついているのが風変わりである。
一段上がったところに古風な洋館風の建物が見えた。前は芝生の庭で、まん中に方角指示標が立てられている。よく見ると先端に銅板づくりのフロックコートの人物が影絵のように立ち、わきに「漂泊者のアリア」、また“LAST RECITAL JUN,1959”とついている。フロックコートの男は藤原義江(一八九八〜一九七六)であって、オペラ歌手がよくするように、両手を胸にそろえて朗々と歌っている──
一階が資料室のつくりで、ポスターやレコード、衣装などが展示してある。かつてのファンが友の会をつくり、運営している。品のいい女性がそっとスイッチを入れてくれた。張りのある澄んだ声が流れてきた。愛称が「われらのテナー」。オペラのテノールだったが、日本の歌もよく歌った。
今宵出船か おなごりおしや
「出船」をオペラ調で歌える人は、幼いころラジオで藤原義江を聴いた世代である。
どうして下関市の関門海峡を見下ろす高台に、「われらのテナー」の記念館があるのか? つまり、ここで生まれたからだ。日本人ばなれした風貌の人だったが、さも道理で、父はスコットランド生まれのイギリス人、貿易商として来日し、その商館がイギリス領事館を兼ねていた。母は日本の芸者。明治半ばのことである。そんな生まれの少年が、どのような差別の中で成長したか想像がつくだろう。当人が思い出に書いていたが、幼いころ、いつもポケットに小石を詰めていた。高い鼻をからかわれると、小石を武器に闘った。
十代のころ、来日歌劇団の客演を見てオペラ歌手を志した。二十四歳のとき、浅草オペラにデビュー。日本人妻と子を捨てて帰国した父親は、多少とも負い目を感じていたらしい。オペラ留学の資金を出してくれた。一年は食える額だったが、それをひと月で使いはたしたところが、終生かわらなかった人となりを示している。
イタリア、フランス、イギリス、アメリカ。風貌と体躯は西洋人そのままなので、十分に本場のプロと伍していける。武者修行兼公演稼ぎが十数年つづいた。ハンサムで、気っぷがよくて、女性に親切なので、よくモテる。三井財閥元老の娘で医学博士夫人だった人が、離婚してミラノのテナー歌手を追っかけた。「恋の船出」として新聞にデカデカと出た。
昭和九年(一九三四)の帰国後、藤原歌劇団を設立。「ラ・ボエーム」を幕開けにして、つぎつぎと本格的グランドオペラを紹介した。軍国主義から戦争へとなだれ込む時代であって、そのなかで西洋モノを上演するのはいかに勇気のいることであったか。勇気だけでなく資金もいる。やっと戦争が終わっても、敗戦国ニッポンにはきわめつきの貧乏国で、オペラなど高嶺の花というもの。駆けずりまわって資金を集め、劇場が少ないので歌舞伎座で公演したこともある。
鎌倉に家があったが、帝国ホテルの一室を借りきりにして、住まいにしていた。家にいて世帯くさくなっては歌手のコケンにかかわる──そんな理由だったようだが、要は自由でいたかったせいだろう。厄介な居候をイヤがらず、払いがとどこおっても追い出さなかった帝国ホテルもえらかった……。
高台の芝生から関門海峡を見下ろしながら、そんなことをあれこれ考えていた。まだ日本が経済と効率一辺倒の国でなかったころ、一代の快男児がいて、美しい声で数々の歌を聴かせてくれた。晩年はパーキンソン病を患って車椅子生活になった。最後のリサイタルが一九五九年だったとすると、十七年近い闘病がつづいたわけだ。この間にも車椅子ながら白いシャツにフロックコートの正装で、ステッキをもち、劇場のフロアに誇り高くあらわれた。
せっかくだから友の会に入会したので、以来、会報が送られてくる。毎年三月、記念館で「われらのテナー祭」が催されており、日ごろはひとけない建物が、その日はファンであふれるそうだ。
[アクセス:JR下関駅から唐戸方面バスで約七分。唐戸バス停より徒歩十分]