池内 紀の旅みやげ(21)八ヶ岳・三分一湧水─山梨県・長坂
青々とした水田をながめていて、ふと思うことがある。これだけの稲田をうるおす水はどこから来るのだろう? 近くには川もなければ池もない。遠くから取水するとなると大工事があっただろうに、そういったけはいもない。山があるから谷の水は考えられるが、谷あいの水はわずかなものだし、雨が降らないとすぐに涸れる。にもかかわらず水田地帯に網の目のようにひろがった水路には、突っ走るようにして水が流れているのだ。澄んでいて、手を入れるとヒヤリと冷たい。いったい全体、どこからこの水は来ているのか?
湧水である。山が大きいほど湧水の数、また水量も大きい。山に降った水の多くが土に浸みこむ。地中には巨大な貯水庫なり水の流れる水路があって、思いがけないところから噴き出たり、湧き出たりする。地中の岩盤の割れ目とか地層の分岐するところとか、出口が定まるには、それなりの理由があるのだろうが、山腹の一点とか山裾の林の中とか、何げないところに湧出口があって、ほとばしるような勢いで水が沸き立っているものだ。
八ヶ岳の南端・編笠山から天女山にかけては、麓の小海線の駅が甲斐小泉、甲斐大泉とあるとおり、旧甲斐国の領分で、武田信玄がつくらせたという軍道や番所跡がある。二駅にわたり、どうして「泉」がつくのかフシギだと思っていたが、あるとき、編笠山の林道を歩いていて了解した。あちこちに泉があるのだ。湧水群がちらばっている。旧火山の広大な山裾は荒野のはずが、小淵沢一帯の山梨側には広大な水田がひろがっている。信玄の軍用路は湧水群のただ中にのびており、いち早く豊かな水のあることを知っていたと思われる。
公式には「八ヶ岳南麓高原湧水群」というが、一般には「三分一湧水」(さんぶいちゆうすい)とよばれている。かつて湧水の利用をめぐって水争いがつづいたが、三方の村々に三分の一ずつを配分することで決着して、石で三分流の仕掛けをほどこした。あわせて今後とも水が絶えぬように、また争いの起らぬように水神様を祀った。江戸のころの知恵がいまも生きていて、利水権の管理は組合に移され、三分の一の原則が守られている。
説明板にある湧水量を見て、目を丸くした。一日八、五〇〇トンとあって、気の遠くなるような量なのだ。水温は冬も夏も一定していて摂氏一〇度前後。夜昼わかたず、ほぼ定まった水量を地表に送り出すのだから、自然の壮大な仕組みと英知ははかり知れない。
三分一湧水から北西一・五キロほどのところにも湧いていて、「女取(めとり)湧水」とよばれている。「女取」の名にちなみ悲恋伝説があるらしいが、メトリの音に「女・取」の文字をあてたせいで話し上手がこしらえたのだろう。こちらの水量は一日一〇〇〇〇トン、水温は摂氏9度。農業用水とするかたわら、簡易水道にもあてられていて、土地の人々は水道局ではなく八ヶ岳の恵みを毎日いただいている。
これだけの水量が編笠山に落ちた雨でまかなえるはずはなく、八ヶ岳の峯々に降った雨、冬の雪と氷があずかってのことにちがいない。とすると巨大な山の地中に、いくつもの水路があるなかで、南へ走る一つ、二つが三分一や女取の湧水となって沸き出てくるらしい。水神さまだけがくわしい事情を知っている。
三分一湧水のすぐわきに「上の棒道(かみのぼうみち)」とよばれる古道がのびていて、ところどころに野の仏が祀られている。道は番所跡から富蔵山の山裾を縫い、編笠山の大きな森林に入っていく。小道のわきを三分一の分流が勢いよくながれている。生活道であって、おりおり水路の補修に人が来るだけで、もの静かな林道だ。木洩れ陽がまだら模様をつくっている。
そんなにたくさん見たわけではないが、全国あちこちに、八ヶ岳に似た湧水がある。扇状地といわれる地形では、水は地下を流れ、地表をうるおしてくれない。水源を見つけ、扇状地一帯にまんべんなく水を分岐させなくてはならない。
日本人の米作りの情熱が水利の知恵をやしなったのだろう。江戸以前すでに何千メートルにも及ぶ水路をめぐらしていたケースもある。きまって水源に「三分一」の名があてられているのは、大きな斜面を三分割するのがもっとも合理的な使い方によるからだ。たいてい近代的な取水施設になったなかで、八ヶ岳南麓は昔ながらの石組みがいまも健在である。泡立つ流れに手をのべて冷やっこいのをゴクリとやってから、ペットボトルに詰めた。夜の水割りのためのお土産である。
【今回のアクセス::所在地は山梨県北巨摩郡長坂町小荒間地内。JR小海線 甲斐小泉駅よりすぐ。】