季語道楽⑽ 日本人なら必携、文庫本俳句歳時記 坂崎重盛
なんなんですか、今年の夏は。って、今は暦の上では、とっくに秋に突入。朝晩は肌寒い日があってもいいはずなのに、この原稿を書いている九月二十日はまだ、全く真夏の超ロングラン。
日本で一番暑い町、といわれる埼玉県の熊谷などでも観測記録始まって以来の暑さという。というわけで、ぼくはまだ半ズボン。こうなったら今月いっぱい、この季節はずれのスタイルでいこうか、と思っているくらい。
言い訳になりますが、だから、秋の季語の原稿を書く気になどなれず、グズグズと今日まで、とっかからなかった、という次第。
天気予報では沖縄を襲った台風も朝鮮半島を抜けて、明日くらいから、いよいよ秋の気配を感じさせる朝夕となるでしょう、とのこと。
と、いうわけで、遅ればせながら秋の季語をあれこれつまみ食いしてみよう。
いつものことながら、大歳時記、などというごたいそうなものを資料とするのではなく、気軽な文庫本の俳句歳時記を手にする。
といっても、春から冬の部の四冊ものか、それに新年の部が加わっての五冊ものを手もとに置いておきたい。ここで、ちょっと文庫本歳時記の話を。このことについては、いつかふれたいと思っていたのです。
ぼくも一応、それなりに江戸の復刻物や戦前・戦後の各種歳時記は用意しているものの、利用する機会が多いのは文庫本の歳時記なのです。
ただし、これらは各出版社から出ているもの、また、同じ出版社からでも編者や時代によって例句や解説がそれぞれ異なる場合も多いので、新刊が出れば入手するし、手元にない版が古書店で目に止まれば、これも買っておく。
たとえば角川文庫から出ている俳句歳時記だが、ぼくの手元には、昭和三十年刊(昭和四七年新版)の角川書店篇『新版 俳句歳時記』と、平成八年刊『第三版 俳句歳時記』、そして昨年平成二三年刊『第四版増補 俳句歳時記』がある(こちらは角川学芸出版篇)。
なぜ同じ出版社の同じ文庫スタイルの歳時記を何種類も買い足したのか、というと、それぞれ版を改めるごとに季語の解説や例句の入れかえがあり、微妙にちがうので、読みくらべる楽しみがある。
おっと忘れては行けない。角川といえば、角川春樹事務所からは、ハルキ文庫から一九九七年、角川春樹編による『現代俳句歳時記』があり、翌一九九八年には、この『合本 現代俳句歳時記』が刊行されるが、これもまた解説や例句にバリエーションがある。
というわけで文庫版歳時記は1セットだけではなく、何種か入手しても損はない、というのが、ぼくの実感。安いもんじゃありませんか。
で、歳時記の利用の仕方となるのですが、ぼくの知るかぎり、わが遊俳の輩は句会のためにパラパラと季語を確認したり例句をチェックするだけで本を閉じてしまう。
これではもったいないですね。歳時記が。
歳時記は、例句を味わったり、季語を調べるための便でもあるけど、解説を含めて、じっくりゆっくり、隅から隅まで読み進めると実に興味深く、かつ、ためになる。知らなかったことが山ほど出てくる。
ぼくなど、何度読んでも、だいたいすぐに忘れるので、四季折々、新鮮な気持ちで、(あれ、この季語は、この季節だったのか)とか、(なるほど、この植物は、こんな漢字の表記もあったのか)と知らされたりするのです。
そして、半可通ながら、
「日本語と日本文化を知るためには歳時記の精読は必須!」
という思いに至るわけです。
と、歳時記に接する基本姿勢だけのべて、実際に文庫本の歳時記を手にすることにする。もちろん「秋の部」の号だ。
秋は「三秋」「九秋」「白帝」「金秋」ともいう。以前、ひとから中国製の扇子を貰ったら裏に漢詩が印刷されていて「朝静白帝——」うんぬんの文字があったが、このときは悲しいかな「白帝」という言葉が「秋」を表す言葉とは知らなかった。なんか、昔の中国の皇帝のひとりかと思っていた。歳時記をちゃんと読めばわかっているはずなのに。
と、いっても前の角川文庫の『新版 俳句歳時記』には、この言葉はなく、新潮文庫『新改訂版 俳諧歳時記』(昭和四三年・改版)には出ている。ね、だから何種かの歳時記が必要なのです。
では、秋の季語をひろい読みしていこう。ありました「銀漢」——神田・神保町に「銀漢亭」という、いい立ち飲み屋がある。
「銀漢」とは見なれぬ漢字だが、俳句の心得のある人なら、「おや」と思うだろう。「銀漢」は秋の季語、「銀河」と同じ「天の川」のことだから。
案の定、ここの主人は俳句を作る人で、ときどき句会も開かれるという。
銀漢や史記にて絶えし刺客伝 日原 傅
銀漢を仰ぎ疲るること知らず 星野立子
国狭く銀漢流れわたりけり 西島麦南
といった句が、先に挙げた文庫の中に見られる。
秋の天文の項に「芋嵐(いもあらし)」という面白い季語がある。芋(さといも)の葉が強い風に白い葉裏を見せながらゆれる景色、
案山子翁(かがしおう)あち見こち見や芋嵐
という阿波野青畝の句から季語となったというから、比較的新しい誕生の季語である。
この季語では他に、
ここいらの犬みな黒し芋嵐 遠山陽子
一高へ径の傾く芋嵐 石田波郷
秋の天文で誤りやすい季語に「冨士の初雪」がある。つい、正月、新年と思いがちだが、当然のこと富士山に初雪が降るのは秋のこと。テレビのニュースでも報じられるとおり。
地理の項では「花野(はなの)」これも知らなければ、春、あるいは夏、と間違う。
「花野」は一面に秋の草花の咲き乱れた広い野原。春の野は「春野」、夏は「夏野」や「お花畑」。
日陰ればたちまち遠き花野かな 相馬遷子
花野ゆく母を探しに行くごとく 廣瀬町子
広道へ出て日の高き花野かな 蕪村
「穭田(ひつじだ)」。「稲孫田」。と表記することもあるが、この季語も都会育ちにはまったく無縁と言っていいだろう。
稲刈りのあとに、切株にまた新しい茎が生える。これを「穭(ひつじ)」といい、中には花穂をつけるものもある。その田が「穭田」。自然の中の細かな営みにも視線が注がれ季語になる。例句も少なくない。
穭田に大社の雀来て遊ぶ 村山古郷
穭田を前に唐招提寺かな 中村七三郎
穭田や雪の茜が水にあり 森 澄雄
穭田に我家の鶏の遠きかな 高浜虚子
「初潮」、この季語だって知らなければ、新年と思ってしまう。新年は「若水」だ。
陰暦の八月十五日、仲秋の名月の大潮の満潮のこと。春の大潮は昼がもっとも高潮となるが、秋は夜。月に照らされた潮が満ちてくる。満月の潮のため「望の潮(もちのしお)」ともいう。
初汐や岬へつづく石燈籠 野村泊月
初潮にものを棄てたる娼家かな 日野草城
初潮やひそかに鰡(ぼら)の刎(は)ねし音 鈴木真砂女
ところで今回の原稿、途中まで書いて、人と会う用事があり、そのつづきを今朝(二十二日)書いているのだが、昨日とうって変わって、めっきりと涼しい。一日で真夏から、一挙に秋の中旬。半ズボンでは、そぞろ身にしむ候となった。
この「身にしむ(入む)」が秋の季語なのですね。芭蕉の有名な句が思い出される。
野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉
身に入むや亡妻の櫛を閨に(ねや)に踏む 蕪村
身に入むや墓石の一つ伊豆守 原 コウ子
もうひとつ、「すさ(冷)まじ」も秋の季語。この言葉、高校の古文の授業でならった憶えがある。試験にも出ました。「すさまじ」は「興味が感じられない」「もの寂しい」「ものすごい」といった語意。季語の場合は「秋が深まり冷気の強い感じ」。例句を挙げてみよう。
すさまじき他人の顔を鏡中に 大槻紀奴夫
山畑に月冷まじくなりにけり 原 石鼎
生き身の妻との間冷じき 石塚友二
その他に時候、天文、地理関連で気になる季語は、「厄日(やくび)」、これは二百十日のこと。台風が多いこの日は農家にとっては厄日というところから。「月」といえばもちろん秋で、「夜這星(よばいぼし)」は「流星」のこと。ただ「霧」「露」といえば、これも秋。
「雷(かみなり)」はもちろん夏だが「稲妻(いなずま)」「稲光(いなびかり)」は、稲光があると稲がよく実る、という説から、この言葉が生まれたというが、実はーーキノコに稲光のような電磁波を当てると一気に増えるのは、すでに科学的に証明ずみ。昔の人の言い伝えは軽視できない。
ところで、来月、神楽坂での嵐山光三郎さんの胆入りで、ぼくが世話人になって句会を開くが、季題の一つは、この「稲妻」。
さてどんな名句が出ることやら。