“11月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1934=昭和9年 南満州鉄道=満鉄の花形特急「あじあ」が午前9時に大連駅を出発した。
流線形高速度特別急行列車といわれた「あじあ」は遼東半島先端の港湾都市・大連から満州の広野をほぼ東北へ一直線に新京までの701.4キロを8時間30分で結んだ。平均速度は82.5キロ、丹那トンネル開通でスピードアップした東海道線の「燕」の69.6キロを大幅に上回った。線路幅が143.5cmと内地の106.7cmより広く直線区間中心だったこともあるが満鉄技術陣が大陸での経験を生かして独自に開発した新型蒸気機関車が6両編成の専用客車をけん引した。
先頭の「パシナ形」機関車から紹介すると全長25.7m、動輪は直径2m、総重量202トン、2,400馬力、最高時速130キロで設計され、「燕」をけん引したC53の全長20m、動輪の直径1.75m、総重量130トン、最高時速95キロ、1,175馬力と比較するとその大きさがわかるはず。形式名は満鉄独自で<米・パシフィック形の7番目の設計車輌>から付けられた。長距離走行が可能なように石炭12トン、水37トンを積み全体が濃紺色で動輪は赤に塗装されていた。客車はフェルトやカボック板、ゴムなどで防音され、6輪ボギー式の車軸で車体を支えた。手荷物郵便車、3等車2両、食堂車、2等車、最後尾が展望室付きの1等車という編成で、外側は淡緑色に塗られて窓の上下には白いラインが走るモダンなデザインだった。
それではいよいよ車内に案内しよう。今の季節は暖房が効いているのがおわかりと思うが客車部分は世界初のエアコンディショニングが採用された。3等車は両側に2人掛けの定員88人で布張り椅子だからビジネス客などには十分。2等車は定員68人で座席はリクライニングの回転イスで、ボタンを押せばほら、いずれの方向にも45度回転する。窓の外に移りゆく大陸の風景を存分に楽しめます。最後尾の1等車の定員は30人でさらに豪華。内装には満州産のクルミ材を使い座席は絹テレンプ張りのダブルクッションで展望室とは仕切りがないので見通しが広がります。書棚脇に書卓もあるから備え付けの絵葉書で旅信など書かれてはいかがでしょう。
食堂車は左右に4人掛けと2人掛けの座席で定員33人、入っただけでいいにおいがしてきます。直営のヤマトホテルのコックが腕をふるっていますから、これが車中で調理されたものかと驚くほど豪華な献立です。食事は和洋定食と一品料理が選べて定食は昼・夜とも1円50銭、ここでしか飲めない特製の「あじあカクテル」はグリーンとスカーレットの二種類があって50銭、どちらがお好みかな。おっと「注文を取りに来る美人ウェートレスはロシア人じゃないか」ですって。これも国際列車としての演出、日本語で大丈夫ですよ。
大連を出ると遼東半島の付け根の大石橋(だいせききょう)、次が渤海国以来の王城の地で人口54万人の学園都市・奉天です。終着の首都・新京には夕方5時30分に着きますからごゆっくりどうぞ。
南満州鉄道は日露戦争後の1906=明治39年に設立された半官半民の特殊会社で、大連に本社、新京に本部、東京にも支社を置いた。鉄道だけでなく炭鉱や港湾、製鉄所、ホテル、学校、病院、研究所など最盛期の資本金14億円で80以上の関連企業があった。中心となる鉄道事業は創業時には「あじあ」が走った大連―新京間の満鉄本線=連京線など1,100キロだったが満洲国成立後は国有鉄道の委託経営を引き受けた。さらにソ連からの路線買収や新線建設で終戦時には所管する鉄道の総延長は約1万1千キロと10倍になっていた。大連市外の沙河口(さがこう)の汽車工場は60万坪=1,980平方メートルでいまの東京ディズニーランドのほぼ4倍の広さがあった。
東より
光は来る 光を載せて
東亜の土に 使いす我等
と社歌に歌われた巨大コンツェルンは1945=昭和20年の日本の降伏の直前に満州に侵攻したソ連軍に接収された。進駐してきた将校は「展望車に<風呂>を設計しろ」と命じた。その特注車両も含め主役だった「パシナ形機関車」はどこに消えたのか。満州の大地を疾駆した繁栄もまさに「一場の夢」だった。
*1911=明治44年 『山岳』11月号に加賀正太郎が日本人初のユングフラウ登攀記を寄せた。
加賀は東京高商(現・一橋大学)生だった前年にロンドンで開かれた日英博覧会を見物するために渡欧した。大阪有数の証券業者の長男に生まれたが父が47歳の若さで他界する。母親はひとまず店を閉め、息子の成長に賭けた。加賀は蝶類や高山植物、なかでも蘭の採集へと興味を広げ、信州の北アルプスや南アルプスへの登山からヨーロッパの山に向かう。
博覧会見物は<表向き>だったかもしれないが北欧・ノルウェーの船旅で出会った老人のアドバイスでスイスでの山岳ガイドを探し8月24日午前9時45分に4,158mの頂上に立った。このときに使ったピッケルなどは長野県大町山岳博物館に残る。『山岳』は誕生したばかりの日本山岳会の会報で、登山黎明期に4千メートル以上の高峰に登った初の快挙は同好の士を大いに勇気づけた。
加賀は証券業をはじめ多方面に活躍、関西を代表する実業家になり後のニッカウヰスキーの創業にも参画、別荘と蘭の栽培研究所として京都に大山崎山荘を建てたことでも知られる。