“11月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1917年 第一次世界大戦まっただなかのロシアで「11月革命」が起こった。
この年の「3月革命」で成立した臨時政府に、レーニン指導のボリシェヴィキ党は不満を持っていた。要求し続けた「平和とパンを」が一向に実現されないばかりか6日早朝には党の機関紙発行所が政府の手入れを受け、印刷中の『ラボーチ・ブーチ(労働者の道)』『ソルダート(兵士)』が没収された。午前10時、緊急閣議で首相・ケレンスキーが正当性を主張したため同11時、ボリシェヴィキ中央委員会は武装蜂起を指令した。「いっさいの権力をソヴェト(=労兵協議会)へ!」首都ペテログラードの守備隊をはじめバルティック艦隊の水兵たちなど軍隊のほとんどが革命軍に加わっていたから計画の準備は整っており労働者から募った赤衛軍も武装が完了していた。首相が軍の出動を命じたときに動いたのはコサックの一隊と士官学校の生徒だけだった。
土砂降りの雨の中、革命の夜が明けた。市民たちはいつものように仕事に出かけ、商店は店開きし主婦たちは行列を作り市電も通常ダイヤで運行されていた。すでにレーニンの指揮する革命軍は議事堂、諸官庁、国立銀行、電信局、郵便局、駅など市内の要所だけでなく発電所を占拠していたから静かに革命は進行した。夜に入ると孤立した臨時政府が入る冬営はネヴァ川の巡洋艦アヴローラから砲撃を受け、ロシアを揺るがせ続けた革命の嵐は一気に終息を迎えることになった。
翌日、全露ソヴェト大会に姿を現したレーニンは万雷の拍手で迎えられた。「われわれは今や社会主義秩序の建設にはいるであろう」と力強く告げ、さらに大きな拍手に包まれた。レーニンはトントン拍子に革命が成就したことがウソのように思えた。同志のトロッキーに「迫害と地下生活からこんなに急に権力を手にするとは。信じられないというよりめまいがする」と打ち明けた。
*1936=寛永11年 講談や時代劇の<36人切り>で知られる「伊賀上野の敵討」が行われた。
備前岡山藩主池田家の旧臣渡辺数馬が義兄・荒木又右衛門の助けを借り、伊賀上野の鍵屋の辻で弟の仇で元旗本の河合又五郎らを討ち取った。曽我兄弟、忠臣蔵と並ぶ<日本三大敵討ち>のひとつで「伊賀越えの決闘」とも呼ばれる。この日朝、又五郎一行11人に又右衛門ら4人が立ち向かい又五郎ら4人を斬った。「なんだ、それだけ?」と思われるかもしれないが又五郎が目的だったわけで36人なんてとてもとても。史実とはそんなものです。
なぜ敵討になったのか。数馬の弟は城下一の美男子で藩主の小姓として寵愛を受けていた。つまり寵童、当時は衆道が全盛の<バイセクシャル>の時代でした。藩士の又五郎は弟に<横恋慕>し関係を迫るが拒絶されたため逆上して殺害後、脱藩して江戸に逃れた。かくまわれたのは旗本安藤家、藩主は幕府に又五郎の引き渡しを迫るが拒否されてしまう。外様大名と旗本との対立もあったがこの訴えのせいで又五郎は江戸を離れることになる。藩主は間もなく疱瘡にかかり死に臨んで又五郎を討つよう遺言したのを受けて数馬も脱藩して又五郎の探索を重ねた。
足かけ5年、この日、奈良に潜伏していた又五郎が再び江戸に向かうという情報をつかみ数馬らは伊勢街道と奈良街道が交差する鍵屋の辻で待ち伏せした。これを知った領主の津藩藤堂家が兵を配置したり、決闘が始まると周辺一帯を封鎖したりして協力したとされる。見事に敵討ちを果たした数馬や又右衛門らも4年間、藤堂家預けとなったあと鳥取に国替えになっていた池田藩に引き取られた。
なぜ<36人斬り>になったのか。長谷川伸は講談師の先代宝井馬琴の父が伊賀上野の興行で立ち合いのあとを訪ねて市内・万福寺にある又五郎ら4人の墓にお参りした。そのさい彼らの人生の「苦=9」を懸けて36にしたという説を取っている。戦前「都新聞」に連載した『荒木又右衛門』は鍵屋の辻の激闘を活写した不朽の名作として名高い。1952=昭和27年に黒澤明が脚本を書いた森一生監督の東宝映画『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』は講談などのようにバッタバッタと斬り倒すのではなく史実に沿って描かれた。又右衛門役の三船敏郎が斬るのは2人だけにとどめてリアリティを持たせて話題になりました。
*1918年 <第一次世界大戦が終結した>というUP通信社の大誤報が世界を駆け巡った。
「パリノレンゴウグンハ、ドイツグント、キョウゴゴ2ジセントウヲヤメルムネノ、テイセンキョウテイヲ、ケサ11ジニチョウインシタ」
ニューヨークのタイムズ・スクエアでは号外を手にした群衆が狂喜乱舞した。それを目撃したプロレタリア作家の宮本百合子は自伝小説『伸子』の冒頭に書いた。
「たった一、二分で、かうも光景が変はるものか!いつの間にか、ホテルの正面入り口に大きな米国旗がつり上げられた。向かひ側の薬種屋でも、或いはその上にずらりと並んだ窓々からも、一斉に大小の国旗が今はもうぢつとしてゐられないという風に、ヒラヒラ情に迫ってはためき出した」
やがて誤報であることが判明する。フランス外務省から電話でパリにあるアメリカ軍司令部に流された情報をキャッチしたところまでは良かったが、それを<信じきった>のがそもそもの間違いだった。<フランス外務省>を名乗ったのが誰だったかはいまも謎である。