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“11月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1918年  北フランスの小駅に停まった客車の中で第一次世界大戦の停戦協定が署名された。

パリの北東70キロ、コンピエーニュの森にある小駅ルトンドに停車していた国際鉄道会社の客車=2419Dが使われ、ドイツ代表エルツベルガーと連合国代表フォッシュが署名した。ドイツはライン川左岸の占領地から撤退し武器と軍事物資のほとんどを連合国側に引き渡した。さらに右岸10キロに連合国が橋頭保を築いたことで翌年のパリ講和会議、ヴェルサイユ条約への道筋ができた。

なぜ客車が使われたかというと連合国の最高司令官だったフォッシュ元帥の専用車で、そこがいちばん安全だったから。調印後に撮影された記念写真には車輌番号がくっきりと写っている。この客車は時を経て同じ場所で歴史にもう一度登場する。第二次世界大戦下の1940年6月22日、ドイツとフランスとの停戦協定が署名された。ドイツからはこの歴史的瞬間に立ち合おうと総統ヒットラーはじめゲーリング、ヘス、リベントロップなどナチス要人が臨席した。

フランス側の全権代表が到着したとき、前回の署名場所に建てられていたフォッシュ元帥の立像はハーケンクロイツのドイツ国旗で覆われ、しかも客車に入るのは代表のハンツジェル将軍やワルシャワ大使ら4人だけに制限された。停戦協定の署名に先立ちヒットラーが「フランスは約束を守らず道理なき戦争を布告した。ドイツ国民はあらゆる時代を通じて最も深い屈辱を味あわされたから正義の行為によって挽回するためこの場所が選ばれた」と演説した。その間ずっと軍楽隊によるドイツ国歌が演奏されていた。

月日は遷り人も変わる。このときはフランスが休戦を求めたのに対し<攻守所を変えた>ヒットラーはこの場所をわざわざ選んだ。戦争は勝っている側が時に“正義”になる。

*1924=大正13年  洋酒製造販売会社寿屋=現・サントリーの山崎醸造所が竣工した。

本格ウイスキーの国内製造をめざす社長の鳥井信治郎がスコットランドで製造技術を学んで帰国していた竹鶴正孝(1894-1979)を年俸4千円の高給でスカウトし工場長に据えた。この年俸はスコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われる。竹鶴はスコットランドに似た風土の北海道に製造工場を作るべきと考えていたが、鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることや客に直接工場を見学させたいと難色を示した。このため竹鶴は大阪近辺の5ヵ所の候補地の中から良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地の風土に近く霧が多い山崎を候補地に推した。

工場や製造設備は竹鶴がすべて設計した。特にポットスチルを製造したことのある業者が国内になく竹鶴は何度も製造業者を訪ねて細かい指示を与えた。とはいえ工場は工場長の竹鶴の他には事務員ひとりだけで醸造シーズンには故郷の広島から酒造り経験がある杜氏を招いて製造に当らせた。

5年後の1929年4月、竹鶴が製造した最初のウイスキー「サントリー白札」が発売される。しかし、模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられず、販売は低迷した。1934年、後に続く技師が育ってきたことや帝王教育を任されていた鳥井の長男に一通りの技術を教え終わったこと、最初の約束である10年が経過したことから竹鶴は寿屋を退社。4月、北海道余市町でウイスキー製造を開始することを決意、資本を集めて7月に後のニッカウヰスキーとなる大日本果汁会社を設立した。ニッカは「日+果」からのネーミングである。

ところでサントリーのほうは「鳥井さん」を逆さにしてサントリーとしたというのは俗説。人気商品の「赤玉ポートワイン」の赤玉を太陽に見立ててサン=SUN、これに鳥井の姓をつけてSUN+鳥井→サントリーとしたというのが公式説明である。竹鶴のエピソードを紹介すると中学時代の一年後輩に後に総理大臣となる池田勇人がいた。当時の池田少年は竹鶴の<布団の上げ下ろし係>だったが亡くなるまで交流が続いた。池田は国際的なパーティーでは国産ウイスキーを使うよう指示していたといわれる。竹鶴はめっぽう酒に強くその酒量はウイスキー1日1本。自分が手がけた「ハイニッカ」を好んだ。ただし、晩年には3日で2本に減らしたという。

*1951=昭和26年  大阪の民放2局目となる朝日放送(ラジオ)が開局した。

<合同工作>に失敗したため9月1日にスタートした新日本放送=現・毎日放送に先を越されたが大物政治家の石井光次郎を社長に担ぎ出した。

正午からの祝賀放送は「君が代」に続き石井社長の挨拶、長唄のあとは座談会「民間放送を語る」。浪曲「勧進帳」が奈良丸、「お笑い劇場」が光晴・夢若。音の漫画「サザエさん」、徳川夢声・渡辺紳一郎らの座談会「佐々木小次郎について」。最後は朝比奈隆指揮のABCシンフォニーで盛り上げた。
翌12日から本放送を開始した。

略称のABCはAsahi Broadcasting Corporationと「正確な報道」(Accurate Information)「美しい
表現」(Beautiful Expression)「楽しい番組」(Cheerful Program)
をめざすというその頭文字をとった。

当時スポンサーになるには午後7時から10時までのゴールデンアワーが30分間で製作費込み10万円が<相場>だった。

放送内容と同じようにこの紹介、ちょっと硬かったかな。

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