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“11月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1948=昭和23年  極東国際軍事裁判の被告全員への判決言い渡しが行われた。

午後3時55分から東京市ヶ谷の元・陸軍省建物の「東京法廷」でA級戦犯25人に対する判決が下された。東条英機ら7人が絞首刑、16人が終身禁錮刑、1人が禁錮20年、全権として降伏文書に署名した元・外相の重光葵が禁錮7年とされた。

A級戦犯とは<いちばん責任が重い戦争犯罪人>と誤解している向きもあろうからここでおさらいしておきたい。第二次大戦後の戦争犯罪はそれまでの国際法による交戦法規違反だけでなく平和、人道を犯した罪も究明の対象とされた。GHQが極東国際軍事裁判所条例を公布したなかで「A:平和に対する罪」「B:通例の戦争犯罪」「C:人道に対する罪」を挙げた。このうちB、Cの犯罪についてはB・C級戦犯として横浜や旧日本軍占領地域でも同時進行で裁判が行われた。東京法廷ではAの罪を含めた審理がA級戦犯として裁かれた。降伏文書に署名したアメリカ、イギリス、中国、ソ連、オーストラリア、カナダなど9カ国にインド、フィリピンの2国が加わり11人の裁判官が裁判所を構成していた。

東条被告はオーストラリアのウイリアム・ウェブ裁判長の宣告を聞き終わると「死刑か、よし、よし、わかった、わかった」といわんばかりに2度軽くうなずいた。閉廷後には弁護人をつとめた清瀬一郎弁護士に「目的どおり自分が元兇になって死刑の判決を受け得たのは非常に満足だ。この上はどうか連合国当局に行って死刑の執行を一日も早くやってもらいたい。ぐずぐずしていて横槍が入ったりしては困る」と述懐した。

戦時中から東条は<日本一不人気な人物>とされていた。敗戦後間もない9月11日に自殺未遂を起こしたときにも「わざと急所を外したのでは」とまで言われた。聞えないところでは『愛国行進曲』の替え歌で
  見よ東条の禿げ頭
  ハエがとまればツルッと滑る
  滑ってとまってまた滑る
  とまって滑ってまたとまる
  おおテカテカの禿げ頭
と子供にまで歌われていたから<東条憎しは世論>だったかもしれない。

裁判所の意見は必ずしも各裁判官の全面的な合意によるものではなかったし、インドのパール判事は純粋法律的な立場からA級戦犯の処罰に反対した。死刑反対もあった。戦争の被害を受けた国家や民衆の立場よりも戦勝国の代表による懲罰という色彩が強く、戦争責任を一方的に決めることは裁判としての公正さを欠く面が大きかったからでもある。

死刑執行は12月22日の深夜から23日にかけて巣鴨の東京拘置所で執行された。翌24日には無罪となった19人が釈放され、GHQはこれでA級戦犯の裁判は終了するという声明を発表した。このなかには後に首相になる岸信介やフィクサーとしてロッキード事件に登場する児玉誉士夫らがいた。

*1912年  南極探検の帰途に遭難、行方不明になったスコットらの遺体が発見された。

捜索隊はこの日、寝袋に包まれた3人の凍死体を発見した。隊長のイギリス海軍大佐ロバート・スコット1901年から04年にかけての南極探検で極点まであと733キロまで迫った。2回目の探検は10年からノルウェーのアムンセン隊と人類史上初の南極点到達を賭けて競ったものだった。

1912年1月17日にスコットたち5人は南極点に到達したがアムンセン隊はすでに1カ月前に到達していた。帰路、隊員の1人が死亡、1人が行方不明になった。前進を続けた3人も猛烈なブリザードに襲われ、食料をデポした地点まであと20キロに近づきながらも動けなかった。スコットは3月29日の日記に「我々の体は衰弱しつつあり最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上書けそうにない。どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい」と書き残し、それから間もなく寝袋に入ったままテント内で息を引き取ったとみられる。

テントには日記や地質標本のほかにアムンセン隊が帰途に全員遭難死した場合に備えて2番目の到達者に自分たちの<初到着証明書>として書かれた手紙もあった。スコット隊がこの手紙を所持していたことで「アムンセン隊の南極点への先達」が証明されたことになるがそれはスコット隊の<敗北証明>でもあったから、のちのちスコット隊の名声を高めることになった。

スコットは親友でもあったエドワード・ウィルソンの胸に手をかけ、もう一方の手にはブラウニングの詩集が握られていた。スコットが妻や友人、イギリス政府にあてた手紙=遺書12通を残していた。そのなかで彫刻家だった妻のキャサリンあての最後の文字「私の妻に」をスコットは消して「私の寡婦に」と書き直している。そこには「ふさわしい男性と出会えば再婚を勧める」と書かれていた。

彼女はスコットの像を制作したが完成の直前に亡くなった。像は南極に向けて最後に船出したニュージーランドのクライストチャーチのシティ・センターに南極の方角を向いて建てられているが左足の後ろが<未完成>という。

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