“11月16日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1831年 『戦争論』を書いたカール・フォン・クラウゼヴィッツが心臓麻痺で急死した。
プロイセン王国(ドイツ)の軍人であり軍事学者でナポレオン戦争に将校として参加した。死後に発表された『戦争論』は軍事学の古典で研究者に大きな影響を与えた。戦争を第一は「敵意や憎悪の情念を伴う暴力」第二は「不確実性や賭けの要素」第三は「政治のための手段」の三要素に分解し、第一は国民に、第二は軍隊に、第三は政府に関連しており、これらは<三位一体で戦争に作用する>と述べる。
『戦争論』では続いて<摩擦と天才の概念>が述べられる。摩擦とは机上の戦争と実際の戦争の違いで現実の軍事行動での予測できない障害の解決には天才的な指導者が不可欠で、こちらはほとんど精神的な要素で構成されているから全く同じ条件の戦争であっても指導者によって結果はまったく変わってくると。近代戦争を体系的に研究したクラウゼヴィッツが残した言葉は多いが「戦争は他の手段をもってする政治の延長だ」は有名である。
ではクラウゼヴィッツの残した『戦争論』は大陸間弾道弾や核兵器など彼が考えもしなかった兵器が登場したことで<恐怖や脅威の連鎖>が止まらない現代の戦争にも応用できるのか。古典であるとはいえ「戦争論の基本中の基本」だけに、まず学んでみなければ分からないというところにその偉大さがあるわけです。
*1653=承応2年 玉川上水が開通し多摩川から江戸への通水が始まった。
それまでは井之頭からの神田用水を使ってきたが人口の増加で飲料水が不足してきたため将軍家光は新たな用水の掘削計画を命じた。工事の総奉行には老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治が就き庄右衛門・清右衛門兄弟が実際の工事を請負った。資金は公儀から6千両が拠出された。
最初は多摩川上流の日野から取水しようとしたが試験通水で「水喰(みずくい)土」と呼ばれる関東ローム層に当たって漏水する事態となった。次に福生が選ばれたが岩盤に当たりこれも断念、最終的に羽村に決まった。もうひとつの難問は高低差が少ないことで羽村と四谷大木戸間で100メートルしかないのもネックになった。こうした難工事に高井戸まで掘ったところで資金が底をつき、兄弟は自分の家屋敷を売り払って工事を進めた。大木戸からは木管で市中に配水した。
給水地域は『御府内備考』に「流末広大にして四谷、麹町より御本城(江戸城)へ入、西南は赤坂、西の久保・愛宕下・増上寺の辺、これ松平豊後守屋敷の辺、金杉左右海手すべて北手、南東方は外桜田・西丸下・大名小路一円、虎御門外、数寄屋橋外、土橋、京橋川南手、八丁堀・霊岸島方、新堀川より永代迄南手、築地浜御殿より西手一円、此水用いざるところ寸地もなし」とくわしく記している。兄弟はこの功績により玉川姓を許され幕府から200両と士分を与えられ以後、玉川上水役をつとめた。
*1876=明治9年 東京・外神田に近代幼稚園のさきがけ、東京女子師範付属幼稚園が開園。
アメリカでの幼稚園誕生に遅れることわずか16年、幼稚園の元祖といわれたドイツで教育者のフレーベルに直接、保育学を教わって帰国した主任保母の松野クララが中心となって開園した。華族や高級官僚、資産家の子ども約50人が入園したがほとんどが上流家庭の子女だったわけで馬車に乗って<お供連れ>での通園だった。
あいさつを済ませた子どもたちは遊戯室で「蝶々」などを歌ったり遊戯をしたりして過ごしたというから今とあまり変わらなかったか。2年後の11月27日に皇太后と皇后が初めて見学された。設置許可を出した文部大輔(次官)田中不二麻呂が案内と説明役をつとめた。このときの皇后の<お言葉>は
「人の身を保ち、智を増やさんは、稚(わか)き時の育て方にあれば、この園の業もいと難(かた)かるべきを思う。その身の健やかにして、その智の開けゆかん効(しるし)まで、まのあたりに知られたるは、まことに喜ばしきことなり」
というものだったが見学の様子が「東京日日新聞」に報道されたことでちょっとした幼稚園ブームが起きる。全国に公・私立の幼稚園が雨後のタケノコのようにできた。とはいうもののこのお言葉は仮名を振ってもかなり難しいから果たしてお利口さんでも子供たちに理解できたのかな。
*1908=明治41年 東京市立日比谷図書館の開館式が行われた。
5日後の閲覧開始には午前9時に鈴が鳴らされドアが開かれた。1番の入館者は市内麹町区有楽町3の1、元錦城中学校生、尾崎卓郎さん(19)と「国民新聞」に残る。真っ先に日比谷の杜に学ぶ情熱といおうか熱意というか。どんな人生だったのだろう。