“11月18日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1887=明治20年 東京市内での本格的な配電事業が始まった。
「電灯三箇を点ずれば東京の夜は真昼の如し」という大げさな設立趣意書で東京電燈会社が生まれたのは1883=明治16年。建設を急いでいた日本橋南茅場町の火力発電所がようやく完成したのを受けてこの日から待望の配電が開始され空中配電線によって日本郵船や東京郵便局などに電灯がさん然と輝いた。
それまでは移動式の石油発動機で鹿鳴館に白熱電灯を点灯させたりして話題喚起にこれ努めたが発電所が完成するまでは前提になる電気が足りなかった。移動式発動機は3馬力でたかが知れていたから「隣のうなぎ屋に電灯をともしたくらい」と皮肉られていた。しかし契約料金は一般的な「10燭光」で月1円と高価だったから翌年末での市内の個人契約はわずか138戸に過ぎなかった。
*1950=昭和25年 京都の正面玄関・国鉄京都駅が失火で全焼した。
未明に本館東側2階の都ホテルの食堂更衣室から出火して3時間にわたって燃え続けた。建物は2代目で1914=大正3年秋に京都御所で行われる大正天皇のご大典=即位式・大嘗祭に内外から訪れる賓客を迎えるために建て替えが計画された。工期はわずか10カ月、木曽御科林のヒノキを下賜されたことで総ヒノキ造り2階建て、外観はルネッサンス様式で西側には電気時計をはめこんだ5階建ての塔が威容を誇った。当初の計画では東京駅と同じ高架式で検討されたが工期が短く断念、平地式に変更になった。しかし山陽線、山陰線、奈良線も全通したことで年間4百万人の乗降客があり、当時の国鉄では最大の駅舎だった。
外装は石貼りだが構造材はすべて木製だったため火の回りが早かった。出火原因は前日に使った電気アイロンの切り忘れだった。この火災で豪華な天皇ご休憩所、貴賓室、全国でははじめてだった売店と理髪店、人造大理石張りの有料便所兼化粧室などはすべて焼けた。出札事務所の金庫の中には前日の売上金250万円が入っていて燃えたものと思われていたが4日後に金庫の中から焼けずに見つかって新聞を賑わせた。
この年は7月2日に金閣寺が放火によって全焼していたから京都市民にとっては忘れられない<大火の年>になった。
*1903年 アメリカがパナマ運河の永久租借権を獲得した。
米西戦争(1898年)の勝利でスペインの旧植民地の管理権を獲得した。このなかにはカリブ海のキューバだけでなく太平洋のフィリピンやグアムが含まれていたから太平洋と大西洋を結ぶ運河が必要になった。建設候補地は当時コロンビア領だったパナマに決まったが金額が折り合わず租借は流れた。
ところがパナマの住民たちはコロンビア政府に不満を持ち1903年に独立を達成する。もちろん兵器や資金面で強力に応援したのはアメリカだったから独立したパナマ共和国は憲法にパナマ運河地帯の幅16キロの地域の主権をアメリカに認めるという規定を設けた。これで運河掘削にアメリカが本格的に乗り出すことになり当時の金額で3臆7千5百万ドルの巨費を投じて1904年に運河の開通式が行われた。
*1921=大正10年 世相風俗漫画で一世を風靡した岡本一平が自身の夫婦関係を激白した。
つい<いま風>に「激白」と書いたが一平の妻は作家の岡本かの子、その子が大阪万博の「太陽の塔」をデザインした岡本太郎である。一平は東京朝日新聞に連載した「侘しき時は汽車ごっこ」に自宅の長廊下で汽車ごっこをする自分と妻を描いてこう書いた。
主人というのは三十五歳のかく申す僕だ。主婦というのが丑の年の女(=かの子のこと)だ。夫婦であったが主人の放埓我儘や主婦の嬌激な感情が喰い違いをやってひどい目に遇った。二人の性格が一遍ずたずたになった。互いに生かして置けぬほども憎み合って然も絶ち切れぬ絆は二人を泣き笑いさせた。それから双方痛手をいたわり合うような所へ出て今日では夫婦の仲なぞという事もまだその間に性という垣根があるから煩いだ。もっと血肉になろう。で、只今では主人と主婦とは身体の上に修道院の僧と尼僧の如き淡白さを保とうとしている。心の上に兄妹かあるいは姉弟の如き因縁を感じている。
この年、一平はちょうど35歳、前年34歳の心境は同じく東京朝日新聞の「へぼ胡瓜」に
三十四歳にもなって九歳の長男が英語を覚えて帰る今日、馬鹿踊りでもあるまいと思われるだろうが、世間人の抵抗の薄くなっている皮膚には一寸した家庭の空気の振動も頭の毛の抜けるほど辛く感ずる。家人の顔の晴れ曇りは一日の生甲斐の消長だ。
あくまで創作漫画に添えたコメントではある。しかし内容は実際の家庭生活、夫婦関係そのままだったから大いに受けた。