“11月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1963=昭和43年 アメリカ大統領ジョン・F・ケネディがテキサス州ダラスで暗殺された。
ケネディは1961年1月に第35代の大統領に就任、選挙で選ばれた最も若い大統領だった。就任式では「祖国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが祖国のために何をできるかを考えて欲しい」と訴えた。名門出身の大統領は演説も上手だった。第三次世界大戦を起こしかねなかったベルリンとキューバでの二大危機を乗り越え、アメリカ人を月面に立たせるアポロ計画をスタートさせていた。
この日は同じテキサス州のフォートワ―スで商工会議所主催の朝食会で最後の演説を行ったあと専用機で午前11時40分にダラス、ラブ・フィールド空港に到着しリムジンのオープンカーでパレードを開始した。予定より4分遅れで市中心部のデイリー・プラザに差しかかった1分後の零時30分、3発の銃声が響いた。1発は外れたが1発はケネディの胸を貫通して前席のコナリー州知事に当たった。もう一発はケネディの頭部に命中しこれが致命傷になり30分後に死亡が確認された。46歳だった。
犯人とされる24歳のオズワルドはその30分後に逮捕されたが2日後に郡刑務所に移送される直前、ダラス警察署の地下通路でのテレビ中継中に元警官で51歳のジャック・ルビーに射殺された。ルビーは多くを語らないまま4年後に獄中で病死した。オズワルドの単独犯行なのか複数犯なのか、はたまた<替え玉>で犯人は他にいるのか。マフィア黒幕説、国際陰謀説などあるが事件背景も含めオズワルドの死で事件の真相は永久に葬られた。
大統領が暗殺された日は日米間に初のテレビ中継が行われた記念すべき日だった。それがこの全世界に衝撃を与えた悲劇を生々しく伝えることになろうとはだれが予想しただろう。
*1945=昭和20年 有楽町の日劇が再開され冷雨のなか東宝舞踊団公演に長蛇の列ができた。
戦災で被災し復旧工事を急いでいた日本劇場=日劇がこの日、ようやく再開に漕ぎつけた。出し物は「東宝舞踊団第一回豪華公演ハイライト全30景」で娯楽に飢えていた人たちがどっと押しかけた。劇場は1930=昭和5年に華々しく開業したが日本映画劇場の経営失敗を受けて日活が賃借して映画館にしたがこれもうまくいかず東宝に会社ごと売却されていた。
東宝は基幹劇場として運営し、戦後は占領軍に東京宝塚劇場を提供する代わりに接収を免れたとされる。その後はショーと映画の2本立てから日劇ダンシングチーム、昭和30年代はロカビリー旋風に乗って「ウエスタン・カーニバル」が好評を博した。人気歌手のショーが多く開かれたことでこの舞台に立つことは<人気芸能人への登竜門>といわれた。
跡地は現在の有楽町センタービル(有楽町マリオン)になっているが、紹介した切符を求める行列は連日、延々と国鉄・有楽町駅を越えて続いたわけです。
*1903=明治36年 京都ではじめて乗合バスが運行された。七条―祇園間で運賃は5銭だった。
七条は国鉄京都駅前にあたり「七条ステーショ(ン)」と呼ばれた。日本初の乗合バスは同年1月に広島市横川―可部間で運行されたが馬車組合の強硬な反対で秋には廃止に追い込まれていた。京都では1893=明治28年2月1日には同じ七条ステーショ―伏見間に全国初の電車が走った。4月1日には「平安遷都千百年記念祭」と「第4回内国勧業博覧会」が開催された岡崎公園まで、七条ステーショから北へ、木屋町通から会場の岡崎経由で南禅寺までを結んだ。この博覧会の目玉として平安京の大極殿を8分の5で復元したのが平安神宮である。
当時の電車は時速10キロで「先走り」と呼ばれた少年が昼は旗を持ち、夜は提灯を掲げて走り「電車がきまっせー、あぶのおっせー」と叫んだ。風雨の日も雪の日も続くこの仕事は大変だったから当時、いうことを聞かない子供には親が「先走りに出すえー」と脅した。もっとも乗合バスのほうはスピードが速かったから「先走り」は必要なかった。
*1948=昭和23年 上野公園を視察中の警視総監が男娼に取り囲まれて殴打される珍事が発生した。
海軍士官出身の田中栄一で戦後は東京都の経済局長をしていたが安井誠一郎都知事の推挙で警視総監に就任した。在職中は左翼運動に強硬な取り締まりをしたことで知られ松川事件をテーマにした演劇上映に私服警官がいるのがわかり学生から暴行を受けた東大ポポロ事件では「警官の大学構内への立ち入りは当然」という強硬発言で物議をかもした。
ポポロ事件は大学の自治と学問の自由を争点に最高裁まで争われたが<警視総監ポカリ事件>のほうは公務執行妨害の現行犯逮捕だったか。「あたしやってないわ。知らないったら知らない」などと揉めたのでしょうけど。