“11月26日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1881=明治14年 「日本政府脱管届」を提出した茨城県の水戸法学館員二人に判決が下った。
脱管とは「国の支配を受けない自由人になりたい」ということ。提出したのは各町村からの招きに応じて政談演説をやったり、自由党の党員募集に力を入れたりするなどかなりの人望もあった宮地茂平と栗村寛亮で県庁を通じて明治政府の太政官あてに脱管届を出した。
謹んで申上げ候。私共議、従来日本政府の管下にありて法律の保護を受け、法律の権利を得、法律の義務を尽くしておりたれども、現時に至り大いに覚悟する所あり、日本政府の管下にあるを好まず。今後法律の保護を受けず、法律の権限を取らず、法律の義務を尽くさず、断然脱管致したく、この段御許可仰ぎ奉り候。
地球上自由生 栗村寛亮 宮地茂平
訴えが出されたのは11月8日だがようやく水戸裁判所から申し渡されたのは宮地に対して「改訂法律令第287条の違制の重に問い懲役百日を申しつける」だった。「違制の重=およそ制に違う者は懲役百日、軽き者は一等を減ず」に照らしたもので栗村は懲役七〇日だったとされる。日本国にいながら自由人になりたいという2人に対しては具体的な適用法律がなかったので「制に違う=ダメなものはダメ」としたわけだ。
*1949=昭和24年 戦後の東京の空にアドバルーンが復活したと朝刊に。
広告主は東京郵政局、GHQへお伺いを立てての<天下晴れて>のアドバルーンで「お年玉付年賀郵便」と「生活安定に郵便年金」というのを銀座に2ヶ所と新宿に上げた。地上22メートル、直径2.5メートルで1日の広告料は一基1万5千円だと報じられている。
同じ日に<別々のアドバルーン>を上げることになったのがプロ野球でこの日、各球団の代表者会議で新球団加盟の是非を巡り紛糾し日本野球連盟が解散した。午後には加盟賛成派の阪急ブレーブス(現・オリックスバッファローズ)、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)、東急フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)、大映スターズ(後の大映ユニオンズ)、新加盟の毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)、西鉄クリッパース(現・埼玉西武ライオンズ)、近鉄パールス(後の大阪近鉄バッファローズ)の計7球団で太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)が結成された。
一方、加盟反対派は読売ジャイアンツ(巨人)、中日ドラゴンズ、松竹ロビンズを中心に、当初は賛成派だったが対巨人戦を手放せないとして残留した大阪タイガース(現・阪神タイガーズ)と新球団の大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)広島カープ(現・広島東洋カープ)、西日本パイレーツを加えた7球団で12月5日にセントラル野球連盟が生まれ、2リーグ分立となった。
野球ファンの方はとっくにご承知だろうが太平洋野球連盟では大映ユニオンズは大映オリオンズとの合併を経て千葉ロッテマリーンズになっていき6球団に。セントラル野球連盟は翌年、国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が加盟していったん8球団になるが西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースと合併して脱退、松竹ロビンズが大洋ホエールズに吸収されて現在と同じ6球団になった。
*1881=明治14年 『小学唱歌集初編』が発行され『蛍の光』『蝶々』などが登場した。
唱歌は1872=明治5年の学制発布のさいに「楽器に合わせて歌詞を正しく歌い、徳性の涵養情操の陶冶を目的とする教科目」と規定されたものの肝心の唱歌そのものがなかった。学制にも唱歌の下には「(当分之を欠く)」と記してあった。つまりこの教科で何を、どうして教えたらよいのかわからなかったし教える技術を持った教師もいなかったから<有名無実>だった。そこで文部省はアメリカで音楽教育を学んだ伊沢修二の進言を受けて東京音楽学校の前身となる音楽取調掛を設置して伊沢を御用掛に任命した。
その苦心の作がスコットランド民謡に詞をつけた『蛍の光』とスペイン民謡からの『蝶々』である。
『蛍の光』は当初『蛍』として発表された。現在は歌われるとしてもせいぜい2番までだろうが4番には当時の国家の<意向>が色濃くにじむ。
『蛍の光』 4番
千島のおくも 沖縄も
八洲のうちの 守りなり
至らんくにに いさおしく
つとめよわがせ つつがなく
「いさおしく」は「勇ましく」で、「わがせ」は「わが兄弟」の意味だが当時の小学生には少しばかり難しいような気がする。