1. HOME
  2. ブログ
  3. “11月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“11月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1883=明治16年  東京・内山下町に竣工した鹿鳴館の開館式が午後6時から行われた。

旧・内山下町はいまの内幸町1丁目だから帝国ホテルの南隣りのNTTビルの場所。煉瓦造り2階建てで32歳のお雇い外国人、イギリス人コンドルが設計した。ネオ・バロック様式で庭には西洋風の池があり池の周りには大きなガス灯が輝いていた。1階には大食堂、談話室、図書館、2階が舞踊室で3間を開け放つと100坪(330平方メートル)の広間になりバーやビリヤードも設備された。建築費用は当時の金で約18万円もかけられた。

開館式には各国の外交官や日本の皇族、華族、高官らが美しく着飾った洋装の家族を連れて出席した。その数は千数百人にも及んだから馬車だけでも大混雑した。出席者をまず驚かせたのは館の正面に輝く鹿鳴館という文字の「花ガス」で、菊花で飾られたアーチの上には大きな日の丸が飾られていた。

開館式は「わが国の欧化政策推進のためにはぜひ必要」と発起人となった外務卿・井上馨の誕生日だった。これ以後、マナーやエチケットさえ知らなかった面々が各国外交官らを招待して毎夜のように舞踏会を繰り広げた。『団団珍聞』にはさっそく「鹿鳴館では華族・高官たちが舞踏にはげんでいるが、全国各地(馬鳴館)では貧民たちが生きるためにテンテコ舞いしている」と鹿鳴館での上流階級の馬鹿騒ぎを諷刺した。

他にも園遊会や音楽会も開催されて試行錯誤の「鹿鳴館時代」を繰り広げた。舞踊会以外にも皇族や上流婦人たちの慈善バザーもたびたび開かれたものの4年後には不平等条約の改正がままならない責任をとって井上が外務卿を辞任すると外交の場としての使用は下火になった。1890=明治23年に宮内省の管轄となり華族会館などとして使われたあと第十五銀行に払い下げられたが解体された。通りに面して建てられた旧国宝の「黒門」は本体撤去後も残されていたが戦災で焼失した。

*1236=弘長7年  浄土真宗の宗祖(開祖)とされる親鸞が89歳で入滅した。

親鸞が息を引き取ったのは弟の尋有が院主をしていた京都・押小路南、万里小路東の「善法院」で尋有や末娘の覚信尼ら多くの門弟が看取った。流罪にあって流された越後や常陸で民衆と広く交わったが一人でも多くの人を救いたいと「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という悪人正機説を唱え、終生、非僧非俗を貫いた。

毎年の祥月命日には各宗派で報恩講が営まれるがこの日から行われるのが<お東さん>の真宗大谷派など、旧暦を換算した翌年の1月16日からが<お西さん>の浄土真宗本願寺派など。1週間前後にわたって行われるのは全国からの信者がお参りするためだ。

*1953=昭和28年  紀ノ國屋が日本初のセルフサービス方式のスーパーマーケットを開店した。

第一号店の場所に選ばれたのは1910=明治43年に青果店として創業した東京・青山だった。当時の小売業では<対面販売>が常識だったがGHQへのリンゴやレタス、セロリなど清浄野菜の納入を通じてアメリカ軍の将校から「なぜ日本にはスーパーマーケットがないのだ」と尋ねられたことが開店のきっかけになった。

翌年アメリカからショッピングカートを輸入するとともに米国式の紙袋を採用すると話題になり、流行に敏感な若者や上流婦人はわざわざ青山まで足を運んだ。3年後には日本では初の店内ベーカリーを開設するなど業界の先頭を走った。創業者増井浅次郎の出身地は豪商・紀伊国屋文左衛門と同じ紀州(和歌山県)だったのが商号の由来とか。

*1923=大正12年  関東大震災後の東京・浅草でさかんに『復興節』が歌われた。

  家は焼けても 江戸っ子の
  意気は消えない 見ておくれ
  アラマ オヤマ
  たちまち並んだ バラックに
  夜は寝ながら お月さま眺めて
  エーゾ エーゾ
  帝都復興 エーゾ エーゾ

演歌師の多くが震災前には浅草周辺に住んでいたが多くが焼け出されて四散した。明治から大正にかけて活躍した演歌師の草分け、添田唖然坊の子の添田さつき(知道)が震災後の浅草や演歌の復興に尽くそうとして作ったのがこの歌だった。

父と同じ演歌師の道に入り『パイノパイノパイ』などでヒットしたが震災復興は東京を一変させて行く。「浅草オペラ」もそうだが浅草は廃れはじめこの『復興節』も一時ほどの勢いはなく、さつきも演歌に見切りをつけて文筆活動に転身した。

関連記事