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“11月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1934=昭和9年  東海道線の丹那トンネルが足かけ16年の難工事の末開通した。

工事は1919=大正8年からが始まったが大量湧水や特殊な粘土地盤に加えて1930=昭和5年11月26日に起きた北伊豆地震によって2メートルもの「横ずれ断層」ができるなど犠牲者62人を出す難工事が続いた。全長7,804メートルは着工時には<日本一>となる予定だったが1922=大正11年に着工して1931=昭和6年に開通した上越線の清水トンネル(9,702メートル)に抜かれてしまった。

丹那第一列車、今暁、歴史的通過。熱海駅の東方のトンネル口にダイダイ色の一つ目がパッと輝いて、まもなく長蛇のような列車が轟然と驀進してきた。これぞ、東京駅を同日午後10時出発、丹那初通過の神戸行急行第19列車なのだ。
祝賀花火一発、深夜の中空に炸裂した。感激と歓喜をのせた列車が零時きっかりに熱海駅にすべり込んだ。瞬間、期せずして起こる万歳の声。列車は同駅を素通りしたが超満員の客は、右側車窓に見える山麓に淡い電灯の光でほの白く浮かぶ尊き人柱の合祀された丹那神社に黙祷したのであろう。車窓は人の顔でいっぱいであった。
零時4分30秒、列車は一直線に丹那トンネルに吸い込まれてしまった。(「東京朝日新聞」)

記事の中に「長蛇のような列車」とあるのは事前予約に乗車希望者が殺到したため臨時に5両を増結して15両編成にしていたからか。通過する各駅でも「提灯行列」でこの一番列車を見送った。日本放送協会はトンネル通過を実況中継しようと熱海口と三島口に受信所を設置、放送車両を貨物車に積み込んで放送した。来宮信号所を午前零時3分30秒に通過、熱海口同4分入り、9分2秒でトンネルを通過したと記録されている。

丹那トンネルの開通で東海道線はそれまでの箱根越えの御殿場線経由が廃止され距離が11.81キロ短くなった。さらに長大トンネル開通に合わせて煙を吐き出す蒸気機関車の走行を避けるために新線(国府津―沼津間)が電化された。東京から沼津間には新鋭電気機関車EF53が投入され、沼津―神戸間の機関車も990馬力のC51から1,320馬力のC53に交代した。

距離短縮と機関車の馬力アップ、御殿場線での後押しの補助機関車増結が必要なくなったことで東京―神戸間はそれまでの9時間から23分の短縮になった。「たったそれだけ」と思われるかもしれないが、まだ関ヶ原―米原間の急坂が残っていたからだ。それでも丹那トンネルの完成により従来の7両編成が10両編成になって輸送力が増した効果は大きかった。

*1892=明治25年  北里柴三郎が東京・芝公園内に伝染病研究所を設立した。

北里は東京医学校(現・東大医学部)を卒業すると内務省衛生局へ就職した。2年後にドイツ・ベルリン大学に国費留学し細菌学者のコッホに師事。1889=明治22年には世界で初めて破傷風菌の純粋培養法に成功し血清療法を編み出した。これをジフテリア菌にも応用して第一回のノーベル生理学・医学賞の候補になったが当時は「共同受賞」という考え方がなかったため受賞は逃した。この論文がきっかけで欧米各国の大学や研究所からの招きを受けたが、留学の目的は日本の遅れた医療体制を改善し、伝染病の脅威から国民を救うこととしてそれらをすべて固辞して帰国した。

ところが世界的評価があっても国内では一介の技手に過ぎず、内務省が建議した伝染病研究所を設立して北里を所長にあてるという案に文部省は東京帝大内にという案で対抗した。これを救ったのが福澤諭吉だった。ならば民間機関でいいではないかということで建設されたのが木造二階建ての研究所で「大日本私立衛生会伝染病研究所」の名称で発足した。その後は内務省に寄付されて政府の援助を受けるようになると芝愛宕町に移転し、研究所、病室、図書館など8棟が立ち並ぶ一大研究所になった。最新の研究設備、優秀な研究員を揃えていた。ペストの蔓延していた香港に政府から派遣され病原菌のペスト菌を発見するなどの成果を上げた。

そうなると文部省=東京帝大にとっては<目の上のコブ>となる。1924=大正13年には突然、伝染病研究所は文部省に所管替え東京帝大の所属になると北里は追い出されてしまう。大隈重信首相らが画策したとされる<乗っ取り事件>だった。反発した北里は私費を投じて北里研究所を設立、諭吉の没後には長年の多大な恩義に報いるため慶応義塾大学医学部を創設して初代医学部長、付属病院長に就任した。「日本の細菌学の父」として知られる。

ハブの血清療法で有名な北島多一や赤痢菌発見の志賀潔など研究所の教授陣を送り込み、自身は終生無給でその発展に尽くしたことを付け加えておく。

*1947=昭和22年  東西の歌舞伎役者が総出演して『仮名手本忠臣蔵』が公演された。

GHQによる「仇討もの」などの演目上演の禁止が解かれたことによる戦後初の公演だった。東京劇場で行われたが進駐軍関係者も目立ったが戦災による物的・人的被害は大きく、1950年代になると国民の娯楽も多様化し、歌舞伎役者の映画界入りや関西歌舞伎の不振など長い<冬の時代>が続く。

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