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“12月6日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1917年  ロシア革命の混乱に乗じてロシアの圧政に苦しんだフィンランドが独立した。

翌年、共産化すると「フィンランド社会主義労働者共和国」が成立する。その後は内戦、隣国スウェーデンとの領土戦争、ソ連との冬戦争を経て第二次世界大戦では枢軸国側についたが<敗戦国>として終戦を迎えた。戦後はソ連の勢力下に置かれるもワルシャワ条約機構には属さず「ノルディックバランス」と呼ばれる微妙な舵取りで平和外交に徹した。ソ連崩壊後は西側陣営に接近しEUに加盟、2000年にはユーロを導入した、というのがフィンランド近・現代史。

そのあと色々あったけど独立の日には長く厳しい冬に別れを告げる美酒に酔ったわけです。有名な企業では世界的な携帯電話メーカーのノキアやムーミンノの陶器で有名なアラビア社があり、モータースポーツのF1のライコネン選手はこの国の出身。他には「エア・ギター」や「携帯電話投げ」「サウナ選手権」、そうかと思えば凍結した湖などの氷に穴を開けて競う水泳大会など奇妙な<世界選手権大会>が大真面目に行われていることでも知られる。私自身も創案したゲーム(=アルミ缶つぶしゲーム)を売り込むならここ!と思っているからちょっと詳しいのです。

*1914=大正3年  ベルリン音楽院作曲科を卒業した山田耕作が帝劇で初の指揮をした。

曲はベルリン時代に作った『かちどきと平和』で日本人が作曲した初の交響曲だった。舞台では宮内庁や陸海軍の軍楽隊出身の80人で構成する東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者として晴れの演奏を指揮した。会場には留学のスポンサーでもあった会の創設者、三菱財閥の総帥岩崎小弥太らでぎっしり埋まった。

ドイツで3年間の専門教育を受け「日本での本格的なオペラの上演と常設オーケストラの設立」が悲願だった山田にとって順調な船出だったが、山田の不倫問題で岩崎の逆鱗に触れたことで資金源を断たれ解散する羽目になった。その後はアメリカのカーネギーホールで自作の演奏会を開いた。国内では帝国劇場でワーグナーの『タンホイザ―』を初演しNHK交響楽団の前身にあたる日本交響音楽協会を設立するが経理を巡るトラブルで瓦解してしまう。自身は音楽のほうは専門家だが組むメンバーがよくないのかお金にはトラブル続きで多額の債務を抱えてしまう。

返済のためもあって旺盛な作曲活動が続く。交響曲や歌劇をはじめ小学校から大学まで多くの校歌を書いた。東京女子大、駒沢大、東京農大、東洋大、明治大、芝浦工大、与謝野晶子が作詞した文化学院の学校歌もそうだ。また三木露風が作詞した『赤とんぼ』、北原白秋作詞の『からたちの花』『この道』『砂山』『ぺチカ』『まちぼうけ』などの童謡や「夏の甲子園」と呼ばれる全国高等学校野球選手権大会の 入場行進曲の作曲者でもある。

しかし一方では戦時体制が色濃くなった1941=昭和16年には情報局管轄下の日本音楽文化協会を発足させ副会長に就任、音楽挺身隊を結成してしばしば占領地での音楽指導にも携わった。将官待遇となって軍服姿で行動したため、戦後は「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなった。『聖戦讃歌 大陸の黎明』『英霊讃歌』『燃ゆる大空』『翼の凱歌』『壮烈特別攻撃隊』『連合艦隊行進曲』などが山田の作曲だった。

戸籍上は長らく「耕作」のままだったが1930=昭和5年12月には名前の「耕作」を「耕筰」に改名すると発表した。1956=昭和31年には文化勲章を受章した。この年に岩崎を怒らせた不倫相手と再婚したのをきっかけに戸籍も「耕筰」に改めている。1948年に発表したエッセイ『竹かんむりの由来』によると同姓同名の人物が全国に100人以上いたことからのトラブルが頻発していたのを改名理由にあげた。

別の理由は指揮姿を見た人から後頭部の髪が薄くなったのを指摘された。しかしカツラを嫌って丸坊主にした。それで<名前の上にカツラをかぶせる>ことを考えた。竹かんむり=ケケ(毛毛)というわけである。本当かなあと思うが本人がそう書いているのだからね。もうひとつ。「カルピス」の商品名と社名は、創業者の三島海雲から相談を受けた山田が「最も響きがよく、大いに繁盛するだろう」とアドバイスしたことで決まった。「初恋の味」もそうかもしれない。わが国の音楽教育に大きな足跡を残した大作曲家の意外な顔だ。

*1877=明治10年  京都御所の上空にわが国初の人を乗せた軽気球が上がった。

このイベントを企画したのは京都府の学務課長で理科教育の熱心な推進者だった原田千之助で当時の槇村正直知事に進言した。製作を頼まれたのは島津製作所の島津源蔵(初代)だったが参考にしたのは外国雑誌に載った一枚の絵図だけだった。しかも製作期間はわずか数カ月しかなかった。原田は成功するかどうかもわからないのにちゃっかり一般3銭、生徒1銭5厘の観覧料をとって製作費にあてたからである。

島津は球体の素材に絹羽二重に樹脂ゴムを任胡麻(えごま)で溶かしたものを塗って気密性を高めた。中に入れる水素ガスは鉄屑に希硫酸を注いで発生させた。問題は誰を乗せるかである。島津は取引先の三崎商店の店員で一番小柄な中田寅吉を口説いた。決行日は宮中行事の「招魂祭」のこの日。仙洞御所の広場を埋めた大観衆の見守るなか見事に地上36メートまでに気球が上がるとどよめきが広がった。

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