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池内 紀の旅みやげ(24) 石の文化ー兵庫県福崎町

日本は木の文化、西洋は石の文化とよくいわれる。おおよそのところはそのとおりだろうが、わが国にも古くから石の技術があり、石でもってさまざまなものを作ってきた。とりわけ知られているのが城の石垣で「近江の穴太衆(あのうしゅう)といって、大津近郊の穴太村にすぐれた石積みの技術をもつ職人衆がおり、近世から江戸初期にかけて、日本各地へでかけていって石垣をつくった。裾はゆるやかで、上にいくほど勾配を高めていく。職人用語で最上部を「天端(てんぱ)」といって、数字上は七十五度とされているが、見た目には垂直に近い。重機類などいっさいない時代に、どうやって巨大な石を持ち上げ、移動させたものか。まるで神ワザのように思えてくる。

岩尾神社の石の鳥居。石工の見事な技術が冴えています。

岩尾神社の石の鳥居。石工の見事な技術が冴えています。

城づくりにかぎらず米づくりにも石の技術が必要だった。稲作に欠かせない水を送るための治水工事はもとより、斜面を石積みによって平地にする。開田に成功すると、豊作を祈って神さまを祀るが、神社には石の鳥居がつきものだ。そしてそこにはきっと石の手水鉢(ちょうずばち)や石灯籠が据えられた。狛犬の風習がいつごろに始まったものか知らないが、あるころから獅子鼻をした石の置き物が社前の左右を飾るようになった。

兵庫県中央部の海寄りに福崎町(ふくさきちょう)という町があるが、町外れの小川に古い石の橋がかかっていた。凝灰岩(ぎょうかいがん)による反り橋で、長さ六メートル、川底からの高さ三メートル。以前は手すりがついていたようだが、さしこみの穴だけがのこっている。簡素そのもののつくりが古調をつたえている。山裾に岩尾神社というのが祀られていて、現在は道路で途切れているが、もともとは参道がのびていて、小川をわたる神橋としてつくられたのだろう。近世以降の神橋形式を知る上で貴重なものとされている。すぐ前の石の鳥居も凝灰岩で背が低く、柱は方柱状、沓石がなく直接地中に埋めてあって、いかにも古そうだ。石柱に慶長十六年(一六一一)と刻まれており、石橋もまた同じ年につくられたと思われる。

福崎町の凝灰岩の石橋。素朴な形が古調を伝えています。

福崎町の凝灰岩の石橋。素朴な形が古調を伝えています。

江戸幕府が開かれたのが慶長八年(一六〇三)のこと。つかのまの小春日和ののち、慶長十九年に大坂冬の陣。翌年が夏の陣で、大坂落城、徳川の天下が定まった。当地は旧播磨(はりま)の国・姫路藩であって、初代城主池田輝政は家康側近の一人だった。岩尾神社の鳥居は輝政寄進と伝わっており、子飼いの石工をつかわしたのかもしれない。

福崎町については、以前、「柳田兄弟絵馬」にまつわり紹介したことがある。柳田国男の生まれたところで、多感な少年時代をここですごした。その故里辻川のことを語った『故郷七十年』のなかに述べている。

「辻川の南を岩尾川という奇麗な細い川が流れている。(……)その少し上流に岩尾神社というお宮がある」

すぐ左手に国男少年の通った小学校があった。裏手の寺には鬼追いという年中行事があり、子供にはそれが一年のうち「いちばん大きい興奮」で、七十歳をこえても鬼が発する声をよく憶えていた。

おん、そこじゃい

めん、そこじゃい

幼い少年は、鬼におん(雄)とめん(雌)があるのかと考えた。

辻川には中国地方から京へ上る最短の街道が通っていて、古くからひらけ、多くの人が往き来した。姫路城主がわざわざ鳥居や橋を寄進したのは、風雲急を告げる大坂の陣の直前にあって、街道筋の人々、ひいては正確な情報網を確保しておきたかったせいかもしれない。いずれにせよ柳田国男は少年のころ、学校の往き帰りに、いかにも歴史を伝える石の鳥居をながめ、石の橋を渡っていた。

「辻川ではオロロ追いといい、単に理由もない行事として残っていた。オロロとは物を捜すときの掛け声であろうが、子供らが群を作って、寒い夜更けの街道を村の外れまで『オロロやオロロ』と叫びながら歩くのである」

のちの民俗学者が幼いころ、いかに豊かな伝統行事を体験していたかが見てとれる。柳田民俗学が、古文書とフィールドワークだけの民俗学とは、ひと味もふた味も違うのはそのせいだろう。

国男少年は辻川の小学校を終えたあと、隣りの北条というところの高等小学校に通った。そこに「北条の五百羅漢」がある。いつのころ、誰がつくったとも知れない四百体あまりの石仏で、大半が四角い石柱の上に、目、鼻、口を彫りこみ、細い線で手足をつけている。羅漢さまと呼ばれているが頭部の浮き彫りや持ち物などから、如来や菩薩などもまじっている。刻銘に慶長十五年(一六一二)とあって、ほぼそのころ、同じ作者によってつくられたと思われる、南東二キロばかりのところに石切り場があって、そこの石が使われたらしい。岩尾神社の鳥居や石橋と同じ時期のことであり、そのころ、地方のとある一角で、鏨(たがね)で日夜、石をたたく音が響いていた。四百あまりもの石仏がいかなる目的で刻まれたのか、何もつたわっていない。慶長年間は関ヶ原の戦いをはさんでおり、戦闘にかり出されて死を遂げた者の縁故者、あるいは篤信の人が、供養のために造立を思い立ったとされている。

【今回のアクセス:姫路駅で播但線に乗り換えて福崎駅下車、徒歩三十分、あるいはタクシー】

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