私の手塚治虫(8) 峯島正行
漫画家と権力との戦い
それは銀座裏の飲み屋で始まった
前回は新漫画派集団の動きと、その実態は、アナーキズムの思想の影響下にあったことを書いた。ナンセンス漫画を描く専門の漫画家が、アナーキズム思想の影響下にあった、ということは、一つの面白い現象である。評論家石子順造が批判するような、戦争協力者だったら、アナーキズムと矛盾することになる。
だから石子の言うことは、無知から出た感想を、針小棒大化させたものとしたとしか言いようがない。
戦争中の生活というものを考えてもみよう。
今の中国が、北京の共産党の一党独裁のもとに、あの大国が一つの方向に動いて行くように、戦前戦中の権力者だった軍部とその協力者の指図する方向に、国全体が動かざるを得なかった。それから逃れられない。だから全体主義は怖い。
それに従わない永井荷風は、麻布の「偏奇館」で無収入、無為で寝て暮らした。荷風などは戦争の役に立たないから、軍部は放っておいたが、少しでも役に立つ人間は否が応でも、戦争に協力をさせられた。
ただ、その権力者に追随して、お先棒を担ぐ、積極的軍国主義者と、いやだけれど戦争に負けるのもたまらないから、仕方なく、権力に従った戦争に消極的な、平和な心情の持ち主との、二方向に戦争中の言論人は分けられると思われる。
そして双方とも、軍国主義に対する態度に色の濃淡があるのは、やむを得ない。近藤日出造は、その消極派の色の薄いほうであることは、今までの説明でよくお分かりだろう。横山も杉浦も漫画家は皆そうである。
昭和一五年、日中戦争の最中だが、まだ国民生活に余裕があった。飲み屋も食堂もその他の日用品もまだ、戦前なみとまではいかないにしても結構自由がきいた。
その年の初めごろ、新漫画派集団の事務所の近くの飲み屋で、集団の誰かが、第一徴兵保険会社のセールスをやっていた山下善吉なる男と知り合った。第一徴兵保険のという会社は、集団(以下新漫画派集団を集団と略称する)の事務所にごく近い銀座三丁目、並木通りにあった、後の東邦生命である。東邦生命の社長の集めた浮世絵が現在、浮世絵の蒐集で有名な太田記念美術館になっているくらいだから、軟派な会社の社風だったのだろう。
お互いの事務所が近いので、飲み屋などで知り合うチャンスがあったのだろう
この山下が以下にのべるような経緯で、最初の雑誌「漫画」の発行人になるのである。
今から三〇年前、近藤の伝記を書くために当時のことを調べたが、当時を知る人たちは既にほとんどなくなり、生き残りの集団の長
老たちに断片的な話を聞いて、当時の様子を再現するほかなかった。
当時まだ健在だった最長老の一人石川進介は、
「山下はいい家の坊ちゃんらしく、まだ三十そこそこだというのに、徴兵保険の外交なんかやりながら、結構ハイカラな「銀座」というモード雑誌を自前で出していた。最初だれと知り合ったか知らないが、だんだん我々と付き合うようになってね」
と語った。山下は漫画好きで、特に横山のファンのであった。「横山さんの漫画を一杯載せて面白い雑誌を作りたいな」と集団連中と飲むたびに語った。じゃ一丁やってみるか、という雰囲気が生まれた。
事は横山の耳にも近藤の耳にも入っていた。
或る時から近藤が、金があるなら俺たちの雑誌をだしてみるか、と言い出した。
4人の漫画家の訪れ
しかし時局は戦争に傾いて行く。この年皇紀二六〇〇年の大祭も行われた。神武天皇の即位以来二六〇〇年というのだ。中学生の私もみんなと一緒に『紀元は二六百年』という歌をうたった。
そして公爵近衛文麿総理大臣を中心に,日本の政治勢力を結集して、高度国防国家を建設するという、新体制運動がすすめられた。最初は広範な国民の支持を受けて、「新体制、新体制」と叫び、新体制のバスに乗り遅れるな、と叫んで、政界でも言論界でも、新体制運動に狂奔する人人の群れが闊歩しだした。ついに政党も解散、新体制の推進機関として大政翼賛会が、その年の10月発足した。
近藤、横山が、その文化部に参加することを拒否したことは前号で書いた通りだ。
大政翼賛会は、しかし次第に軍部の独裁、統制強化を招く結果に終わり、太平洋戦争から敗戦につながる。
新体制運動が脚光を浴びている頃、漫画集団の事務所に、四人の漫画家が現れた。それは北沢楽天門下のグループ「三光漫画スタジオ」の松下井知夫、西塔子郎、その頃の若手のグル-プ「新鋭漫画グループ」の南義郎、杉柾夫である。
松下は戦後も長編漫画家として活躍し、わが、手塚治虫の媒酌人を務めたこともあり、ストリー漫画の実力者であった。
新体制は、言論界は勿論、経済団体でも文化団体でも国策協力のため、統合が行われ、その一環として言論界も雑誌、新聞の統合、内容も国論統一の見地から規制強化が始まっていた。
いずれ漫画界にも統制の手が伸びてくるに違いない。雑誌新聞の統合や言論機関の縮小統合のために、権力者の手で漫画団体や漫画が統制されたならば、漫画の市場が狭められ、
漫画家の生活は脅かされ、生活が不安になるに違いない。
だから官憲の手がかからないうちに自分たちの手で、漫画の発表の自由と、活動を維持を考えなければならない。権力から身を守るために羽振りのいい漫画集団を先頭に、漫画家の権利と生活圏の擁護のための、総合団体を造ったらどうか、というのが松下の提案であった。
はじめ取り合わなかった、近藤や横山、杉浦も、松下の本音をきいて、まず近藤は態度を変えた。
集団で、早速会議を開いて、正式に返事をすると返答した。集団の全員も時局の流れに抵抗する団体設立に賛成だった。近藤は自ら駆け回って、幾つかの漫画団体、に呼び掛け、団体に属さない個人、例えば加藤悦郎、那須良助、小野佐世男らにも誘いをかけ、現役漫画家がほとんど集まったような団体を作り上げた。
昭和一五年八月、銀座三原橋の近くの貸席朝日クラブで、新団体の世話人会、総会を開くまで、漕ぎ着けた。
その連合体の名称を「新日本漫画家協会」とつけた、事務所を漫画集団の事務所に置いた。この新日本漫画協会の設立には、官憲とか権力筋の関係はなかった。
権力嫌い、団体嫌いの近藤が、このような団体の設立に動いたのは、軍部や内閣情報部とかの権力者の手で、官製の団体を作らされ、日常の仕事や行動まで、その指導課、指揮下に置かれ、自由を奪われるのを危惧して、先手を打って、自分たちの連合体を作ったと考えるのが妥当であろう。
近藤は何か権力側から漫画家への干渉があった場合、この団体を受け皿にして、漫画家に自由が損なわれないようにしようと、考えていたのではないか。
私が「近藤日出造の世界」を描いた三〇年前でも、実際にこの教会の組織、綱領、代表者、役員といったものは一切不明で、誰も知らない。そういうものあったのかもわからない。
おそらく近藤は意図的に、漫画集団を作った時と同じように、そうした事柄は一切作らなかったのではないか。何かあるとその場その場で、主だった顔ぶれが集まって、ことを決して行ったのではないか、と思われる。
雑誌「漫画」のアイデア
この団体が作られた時、近藤の頭に、一つのアイデアが浮かんだ。それは山下なる保険会社員が持ち込んだ雑誌案を、この連合体の機関誌にしたらどうか、ということである。その頃はもう新雑誌の創刊などは、物資の不足から統制が強化され、困難になっていた。
しかし「新日本漫画家協会」という連合団体の機関誌としてなら、発刊も 用紙の確保もやりやすいのではないかと考えた。
近藤は集団の総会に、このことを図り、賛同を得た。横山の提案で、誌名も「漫画」にした。山下が、漫画社という発行主体を京橋区木挽町四丁目に作り、自分のやっている「銀座」の編集者で、集団の益子しでをと石川進介の友人だった鈴木利三を編集実務に当たらせた。鈴木は本来漫画家志望だったので使いよかったのだろう。編集の統括は一切、近藤が当たることになった。山下は発行人で、営業面を担当した。
その第一号が、早くも大政翼賛会が発足した昭和一五年一〇月に一一月号として発行された。漫画という大文字の表紙、新日本漫画家協会機関誌と銘打ち、左上に小さく新体制号という文字をいれている。
表紙絵は近藤が、ちょうど日独伊三国同盟の締結された時だったので、それに合わせ、リッペントロップ、チアノ、松岡洋介の三国の外相が、乾杯しているところを描いている。
いかに新体制号と謳ってみても、山下なるボッちゃんの自由になる程度の金が資本だから、粗末なものである。本文24頁、2色オフセットが4頁、それに表紙を付けただけの、当時としても、粗末な雑誌である。定価30銭、部数1万5千部程度で、ミニコミもいいところだ。
漫画たちはこのちっぽけな雑誌に、同人雑誌のような希望を託していた、とみるべきだろう。
不勉強の日本の戦後の漫画史家はみんなつまらない間違いをやっている。
例えば石子順(順造ではない)の『日本漫画史』という上下二巻の上製本があるが、その中に次のような記述がある。
「この年(昭和一五年)の11月、新漫画派集団、三光漫画スタジオ、新鋭漫画グル-プなどの漫画グループは、大政翼賛会の命によって、新日本漫画協会に統合される。機関誌「漫画」が発刊される」
これは全くナンセンスである。第一、この雑誌の創刊前の準備制作中には、大政翼賛会(昭和一五年10月発足)はまだ発足していない。鳴り物入りの騒ぎの中で、日本の新体制を建設するという大政翼賛会が、そんな小さな漫画団体のことに最初から、かかわる筈はない。 こうしてあたかも漫画家が、一部が権力と結託して戦争をやろうとしたような表現が、漫画史として、通っているのは滑稽である。
しかもその大目的を持った雑誌が、山下なるサラリーマンの小金を資金にしているのだからなお滑稽だ。
もし大政翼賛会の宣伝雑誌だったら、内容はともあれ、世界に出しても恥ずかしくないものを、いくら官憲でも軍人でも、作り出すだろう。
しかもこの第一号で、新日本漫画家協会から脱退するもの出た。
加藤悦郎の脱退
第1号が発売されると、多くの仲間の漫画家から、加藤悦郎の描いた巻頭漫画と、彼の書いた巻末の記に強い批判攻撃の声が上がった。
その加藤の漫画というのは、「漫画家の使命」と題するもので、漫画家らしい男が、ペン先をかたどった大サスマタに、便乗主義、悪質文化、贅沢病患者、西洋崇拝、享楽主義、闇商人、デカダニズム、現状維持、ニヒリズム(これらは当時の軍国主義者の攻撃の的であった)という、レッテル人間を突き刺して、ごみ箱に捨てられているという、まるである方面のポスターのようなグロテスクなものであった。
もう一枚は、「お荷物お断り」という題で、自由主義、個人主義、ニンシキ不足といった大荷物を持った紳士が、「新体制」という、バスに乗車拒否されている絵である。いずれもあくどいポスターに過ぎない。
これが「笑い」を作ることに懸命になってきた新漫画派集団や、他の漫ナンセンス漫画家に、これは漫画じゃないと、発売と同時に批判の声が上がった。
もう一つの巻末記という文章には、
「過去の漫画は、或るものはアメリカ的、また或るものはロシヤ的であり、フランス的であった………かくてわが漫画界は、さながら上海の共同租界であった。
*
だが、この恥ずべき租界もついに解散すべき時が来た。新しき東亜建設!この巨大なサイレンの咆哮がその時を告げた。若い漫画家は叫んだ。漫画の国籍を取り戻せ!その叫びの凝結が新日本漫画家協会なのだ。後略。」
この文章に集団の面々が激怒した。私は前出の『近藤日出造の世界』において以下のように書いた。
「これは欧米のナンセンス漫画の影響のもとで、日本のナンセンス漫画を築いてきた集団や、それに追随した漫画家たちを、上海共同租界と決めつけ、その業績を全面否定した文章に他ならない。一見ゲラゲラ笑わせることを信条にして、ジャーナリズムのメインストリートを闊歩してきた近藤たち集団の面々には、我慢のならない文章であった」
加藤悦郎という漫画家は、本来左翼的な漫画家で、政治や社会批判的な漫画を描いてきた男だ。それが、新体制運動が始まり、世の中が戦時色濃厚になるにつれて、皇国主義的漫画家に一八〇度転換した転向漫画家だった。
もともと社会風刺や社会批判を主題にした漫画を新聞や総合雑誌に発表し、ゲラゲラ笑わせるナンセンス漫画家を馬鹿にしていた男だ。漫画集団が売り出しの最中であった昭和一一年日本漫画研究所というところが発行した小冊子に、加藤は「漫画批判と鑑賞」という文章を発表しているが、その中で、
「世にいうナンセンス漫画とは無知の壁に咲いたカビの花だ。蒙昧の糞に沸いた蛆虫だ。
(中略) ナンセンス漫画はメチールアルコールと性質を共にしている。人人の視力を奪い去る毒素を模造している。ナンセンス漫画の存在を否定するぼくは、同時に、いわゆるナンセンス漫画家たるものの独立性を断然否定する」
と、ナンセンス漫画家を罵倒し、近藤、横山以下のナンセンス作家をくそみそにやっつけている。今思えばこういう加藤をよく新日本漫画家協会の仲間に入れたと思うのであるが、たちまち、加藤への仲間の批判は集中した。
当時加藤はジャパンタイムスに日独伊の三国同盟を礼賛する漫画を描き、それがナチスの新聞に転載され、それを鼻にかけ、えらい漫画家と自負する加藤が、新日本漫画家協会の総会で、ナンセンスボーイどもに、一斉攻撃を受けた。その天狗の鼻を叩かれた加藤はそれに対して激怒した。
「貴様ら、そんな馬鹿な事を言うならおれはこの場で脱退する」と立ち上がって、会場を飛び出していった。
加藤はその後、橋本欣五郎大佐の率いる極右ファシズム団体「大日本赤誠会」に入会する。そのとき、岸たけお等何人かの仲間を引き連れて行った。そのファシストが戦後は、また共産党員に転向するのだから、恐ろしい日和見というべきだろう。
新日本漫画協会は、機関紙第一号を以って、極右の仲間と分裂する騒ぎがあったことは、記憶さるべきだろう。
認識の浅い評論史家
それにもかかわらず、「漫画」の第一号の巻頭に載せられたためか、これを「漫画」のイデオロギーを表す作品と解釈するあわて者がいるのだから、用心が肝要だ。
先に述べた石子順は、その著『日本漫画史』(大月書店 昭和五四年)において、「漫画」を紹介するのに、加藤のファッシズムのポスターのような漫画を、その雑誌の代表作のように書いているばかりか、この加藤の漫画の線で、新日本漫画家気協会が、戦中のジャーナリズムを煽ったように表現している。
昭和一五年代は新体制とはいいながら、まだ漫画表現の自由が保たれていたのである。たまたま一号に跳ね返りの漫画が載ってしまっただけなのだ。
石子順造や、石子順のように、集団がジャーナリズムの先頭に立って、戦争をあおったように言うのは、事実認識の無さからくる浅はかな間違いである。
わずか40頁の小雑誌に何が出来よう。戦争に国民を駆り立てたのは、もっと巨大な何百万とする新聞であり、百万にも達したという巨大な娯楽雑誌や、その他の数々の出版物であった。
それより、「漫画」の創刊号は一万五千部刷って、50パーセントしか売れない。2号も3号も同様である。漫画家の生活を維持すために出した雑誌も、これではしようがない。その赤字は5号目を出したところで、一万円の赤字となった。山下は窮状を、印刷を依頼していた、協栄印刷の社長菅生定祥(すがおいさだよし)に、後の経営を引き受けてくれるように、頼み込んだ。そんな赤字記企業を引き受けることより、未払いの勘定をどうしてくれるのだ、と山下は借金の催促をされるだけだった。
そこで近藤が、菅生に再度頼みに行った。近藤が、「新聞ならアサヒ、出版なら岩波、といわれるが、自分はそれに負けない知性の高い理想のまんが雑誌を作りたい」と近藤は口説いた。菅生は近藤の話を聞いてその人柄に好感を強く抱くにいたった。
菅生は印刷業という職業がら、大政翼賛会の宣伝部に出入りし、仕事を受注していた。その関係で、翼賛会の宣伝部副部長川本信正と交流があった。菅生が、漫画雑誌の経営を頼まれていることを話すと、「翼賛会の役に立つ仕事になるかもしれないから、引き受けた方がよい」とのことだったので、菅生もその気なった。そして近藤と菅生の交渉の結果、菅生が経営者、近藤は編集者ということに決まった。
近藤は当時としても40頁ほどの小雑誌としては高額な、月々千五百円の稿料を要求した。近藤にその時は惚れ込んでいた、菅生はそれも承知した。
近藤は高い稿料を貰ってこそいい作品が生まれるという信念を持っていた。「漫画」の投稿欄の原稿料の高いことが、その後の多くの漫画家を育てた。西川辰巳、加藤芳郎、金親堅太郎、改田正直などの戦後活躍した漫画家の大部分は「漫画」の投稿欄から出ていることは確かである。近藤は投稿作家にも高い賞金を出した。
権力者へに啖呵
それはともあれ、昭和一六年六月号から、菅生が合資会社「漫画社」を設立し、本社を神田錦町協栄印刷におき、編集は漫画集団事務所に置いた。
昭和一六年八月号から、新日本漫画家協会機関誌という言葉も消えた。新日本漫画家協会は自然解消となったのだろう。菅生が経営する「漫画社」の雑誌の編集を近藤に委託するという純然たる私的経営の雑誌となった。
当時の出版界は用紙に配給統制、出版物の制作統制が次第に厳しくなり、出版物の販売取り次ぎの一切は、日本出版販売株式会社にゆだねられた。菅生は「漫画」を翼賛会の推薦雑誌にしたら、統制下でも、用紙確保が楽になると考え、旧知の宣伝部長久富達夫や川本副部長に働きかけたが、そうなるには有馬頼寧事務局長から近衛首相の決済が必要だといわれ、あきらめて、大政翼賛会宣伝部推薦にしてもらった。それでも時の権力を利用したことは、事実といえよう。
当時としては翼賛会宣伝部推薦ぐらいの言葉では、販売には影響がなかったが、とんだ大事件が、「漫画」に急転換をもたらした。
昭和一六年一二月八日の日米開戦は日本中のマスコミを突き上げた。「漫画」も開戦記念で、用紙の特配があってか、四万五千部刷ったが、ほとんど返品がなかった
この現象は、「漫画」などという小さなものにまで恩恵を与えるほど、日米開戦は、言論、マスコミを盛り上げ、歓声を上げさせたのである。
それは所詮、緒戦の勝利の賜物であったにすぎない。
このときには近藤は敵の指導者、チャーチル、ルーズベルト、スターリンなどをA4の 表紙一杯ににカリカチュアライズした、似顔絵漫画を掲載し、評判をとった。油に乗った三十数歳の近藤が、張り切って書いたこれらの作品は傑作だった。
其の後二度にわって、権力的方面の野心から「漫画」を奪われそうになったことがある。
昭和一七年戦時統制がいよいよ強化された時代、大阪で「漫画日本」という雑誌を出していた大阪新聞の社長前田久吉が、雑誌の統合の流れに乗って、内閣情報部ににひそかに働きかけ、「漫画」を「漫画日本」に吸収させ、情報の統一化と政府に都合のよい雑誌を作ることを企画し、情報局に働きかけた。
近藤は情報局に呼ばれて説得されたが、自分は菅生に恩義がるから、あくまで自分は「漫画社」から出す。権力を以って強行するというなら自分は漫画家をやめるばかりでなく、同志の漫画家の協力も抑えてゆくと、当時としては強硬な返事をした。
それで、前田もあきらめた。次の波は戦争が押し詰まった昭和一八年で、南方戦線では敗色が濃厚であった。近藤は大政翼賛会の文化部から呼び出しを食った。
そのころは文化部も当初の革新的なものから、内閣情報部の下部組織的なものなっていた。その時の文化部の意図は、漫画の宣伝的効用を考えると規模の小さい漫画社から、宣伝力、販売力、影響力の大きな新聞社などに出版権を移し、政府、翼賛会の方針に沿った官制的な存在にしたいというものであった。その背後にあったのは毎日新聞で、自分の所に「漫画」の出版権を横取りしようと企んでいた。
近藤は翼賛会文化部に呼ばれ、内々に前記のような下話を持ちかけられ、実現に及んだ時には、近藤に官僚的高い地位を与えることも持ち出された。
近藤は話を聞いて、一も二もなく明確に断った。
「そういう雑誌を造れという政府の命令なら、何も言うことはない。ただし私は、そういう仕事はできません。私は一国民だから、ハンマーを握っても、一兵卒になっても渾身の力を込めて国家のために働きますが、漫画家として、漫画を知らない官僚の指図によって、漫画雑誌を作ることはできません」
と、近藤は明言した。当時の翼賛会には、まだ民間言論人出身の見識を持つ人が、残っていたのだろうか「近藤が協力しない漫画時局雑誌」では、いいものができるはずがないと、その話は立ち消えになった。
しかし戦局は悪化の一途をたどった。南方洋上の大小の島々は占領され、そこから直接日本を攻撃するという態勢になってきた。漫画の仲間も召集されて、戦地に送られるものが次々と出た。
緒戦の頃は、報道班員として漫画家も各地に従軍した。昭和一三年には清水昆、村山しげる、益子しでをが南中国に派遣されており、太平洋戦争が始まると横山隆一、小野佐世男がインドネシアに、井崎一夫、荻原賢治がビルマに、永井保がフィリピンに、小川哲男がインドネシアに、近藤日出造は南方諸地域を航空機で視察と、それぞれ戦争に協力させられれた。
戦局が押し迫ると、まず人気者の横井福次郎、村山しげる、益子善六(しでをと同人)、小泉貞夫、吉田貫三郎、井崎一夫などが戦線に応召されていった。そうなると「漫画」の執筆者も減る一方だった。
集団の事務所というと、数寄屋橋とすぐに連想されるくらいであったが、人員が減ってくると、そこは持ちきれなくなり、昭和一七年一二月、芝田村町の洋食店、ニューキャッスルの二階に、事務所を移した。仕事もなく人もいなくなり、事務所も維持できず、家族をそれぞれ疎開させて、あと東京に残ったやもめ暮らしの近藤、横山、那須、横井福次郎などで、芝神谷町に一軒の家を借り、細々漫画家の事務所とした。やがて杉幸雄にも召集令状が来て、横須賀の海兵団に入団した。
戦局は悪化するばかりで、昭和十九年一一月二九日マリアナ基地から飛来したB29、80機が東京を空襲した。日本中を焼土と化した、大空襲の最初の一撃であった。
その夜、神田錦町の漫画社のあった協栄印刷の工場は、直撃弾を受けて丸焼けとなり,住いも一緒だったので、菅生の家族は全滅した。妻と三人の娘、息子、そして妻の妹が死に、菅生だけが生きのこった。
その葬儀は上野寛永寺で行われたが、多くの仲間とともに手伝いに行き、近藤、横山は、受けつけにゲートル巻で立った。昭和二〇年三月一〇日の夜、最後の砦、神谷町の事務所も焼けた。近藤は、信州上田の家族の疎開先に移った。
終戦前後の漫画家
「芝の住居を焼かれたころから、さすが鈍感ものの私も、これは絶対に負けるという信念になってしまった。
軍閥のいろいろな罪科、でたらめな経済運営、官僚に思い上がり、その仕事の非能率、そして敵アメリカの兵器の優秀性、これは負けるより道がない、と深く思い込んでしまった。
私は信州に引っこんで、意気地なく日向ぼっこをして寝て暮らした」(「漫画」昭和21年2月号)
と、その手記に書いてあるが、寝てばかりもいられなかった。庭に甘藷をうえ、川の土手に南瓜を育てねばならなかった。
ところがその七月、その近藤にさえ召集令状が来た。その日のありさまを横山隆一が描いている。
「私が信州に行ったのは近藤の誘いに応じたのです。その頼りにした近藤が応召したのでがっかりしました。近藤日出造応召の場面は、いまだに忘れることができないほど滑稽で御座います。
近藤は応召の楽隊が大嫌いで御座います。近藤応召壮行会は上田の神社で行われました。近藤が社殿に向かって神主のお祓いを受けているとき、突然楽隊が、ドンガラガッタ、ドンガラガッタと始めました。近藤は社殿に向かったまま1尺ぐらい飛び上がったのです。さてその行列が上田駅に着くまでの間、近藤はどうしても真ん中を通ろうとしないで、隅の方を歩くので、そのたびに在郷軍人に真中に引っ張り出されて、それを何回も繰り返して、世にも情けない表情で御座いました。」
(『でんすけ随筆』)
近藤が入営した部隊は、九州熊本の臨時編成部隊であった。兵隊は阿蘇山近くの山中で、内地防衛の防空壕濠掘りや陣地構築ばかりやらされた。銃も剣も数人に一本、水筒は竹筒というひどさであった。食料もたりず、空腹と戦う毎日であった。八月一五日を迎え、玉音放送を聞かされた。用事で呼ばれ近藤二等兵が将校室に行くと、将校たちは山海の珍味を前に飲んだくれていたが、さし身一切れ、三七歳の老二等兵には、くれなかった。その日の夕方その部隊本部から、命令が出た。
「わが部隊は終戦を認めず、断固この山中にこもって敵を迎え撃つ」
武器も食料もなく、この幹部のもとに米軍を迎え撃ったらどうなるか。結果は考える必要はない。前途を心配した学徒兵出身の見習士官が三人、身の処し方を、老二等兵に相談にやってきた。近藤は即座に返答を出した。
「脱走」
その瞬間から準備の指示をだし、何日間は飢えを癒すに足るだけの食糧を用意させた。
その深夜ひそかに彼ら四人は、兵舎を出た。
軍用靴下何足かに、出来うる限りに米を詰めさせていた。
駅まで行けば、兵隊たちがうようよしていたので、咎められることはなかった。彼らと神戸で近藤はわかれた。
上田に帰って近藤はひさし振りに家族に会うことが出来たが、何時までも寝転んで過ごす余裕はなかった。経済的にも漫画家としても、である。家族と工場を、爆撃で一挙に失った、菅生が、知り合いの工場に頼んで、細々と、執念のように「漫画」を出し続けていた。敗戦の年にも12頁の薄っぺらな雑誌を出している。その時の書き手が秋好馨であった。彼は柔弱で戦場には駆り出されなかった。
近藤はその菅生に手紙をだして、東京の様子を聞いた。返事はすぐ来た。幸い近藤の弟子筋に当たる塩田英二郎が杉並に住んでいるが、戦災を免れたので、近藤を泊めるくらいのことができる、それから東京の雑誌新聞の復興ぶりを書いて、上京を促してきた。
漫画集団の新発足
上京した近藤は、塩田が作った薩摩芋を食料に、東京中を駆け回り、「漫画」復活のために情報を集めた。同志の漫画家は皆租界地にあり、戦場から復員したものも、故郷へ帰っていた。
近藤は、塩田の家を連絡先にして、各地に散らばる漫画家のための注文を取るように、塩田に言いつけた。菅生に「漫画」の復刊も要請した。塩田の所に仲間たちの情報も集まってきた。近藤は漫画集団の復活を決定し、塩田に連絡をさせた。昭和二十年の十月、近藤をはじめ横山、杉浦、清水、若手の和田義三、永井保が集まって、今後の相談をした。そこで話し合い、新漫画派集団を再建して発展させよう、ということになったが、横山の提案で、「新漫画派集団」とういう名前を単純に漫画集団とすることに決めた。
新日本漫画家協会を作って以来、旧集団の人人と新しいつながりのできた人を加えていこうということにもなった。新漫画派集団の仲間だった近藤、横山、杉浦,清水、石川進介、利根義夫、益子善六、秋吉馨、矢崎茂四、小山内龍、中村篤九、横井福次郎、村山しげるに、新たに井崎一夫、荻原賢治、小川哲男、和田義三、塩田英二郎,永井保、那須良輔、松下井知夫、小野佐世男、南義郎、安本亮一、小泉貞雄、田内正男という大メンバーとなった。
昭和二一年一一月、銀座松坂屋裏に、焼けビルをかり、そこを事務所とした。第一回の総会は、焼けたコンクリートの上に新聞紙をしいて、そこに、胡坐をかいて開いたという。
以上のメンバーに加えて戦中戦後の「漫画」の投稿欄で、近藤が鍛えたという、加藤芳郎、六浦光雄、西川辰美、金親堅太郎などなど戦後の漫画壇をにぎわした天才が加わって、漫画集団は、戦後の文芸復興の波に乗って、大発展を遂げる。
近藤、菅生のコンビによる「漫画」も昭和二一年の正月になると、やや整った雑誌となり、幾人かの新人を発掘したが、昭和二六に廃刊となった。
しかし漫画集団そのものは、これだけの陣容を揃え、実績を上げてゆき、マスコミでは、漫画壇イコール漫画集団という勢力になってゆくことは、当然の勢いであった。
その漫画集団の最盛期ともいうべき、昭和四二年になって、戦争中の近藤の行動を戦争協力者であり、今、漫画家の先頭に立つのはおかしいという議論が出てきたのであった。
その一つが手塚治虫を激怒せしめた、石子順造の評論である。
先にも紹介したように米英撃滅の戦争賛美漫画を描いた近藤たちが、現在の漫画界をそして漫画集団を牛耳ることによって、独裁権を行使しているというのだ。
先の手塚の言葉にあるように、これは実状を知らないものの、ためにする議論といわれても、仕方がないだろう。石子は『マンガ芸術論』(昭和42年 富士新書)なる著書において次のような攻撃文を書いている。
「(漫画)はあの物資の乏しい時代においてすら、色刷りで発刊されていた」
と書いているが、馬鹿もほどほどに言えといいたくなる。
戦争中でも昭和二〇年の敗戦間際までは、普通の雑誌は、例えば少年倶楽部でもキングでも主婦の友でも、皆色刷りの表紙で、色刷りページをもっていた。
筆者も当時中学生で、旺文社の「蛍雪時代」を愛用していたが、オフセット多色刷りの、その巻頭に載る西洋名画の美しさに、いつも酔わされていた思い出がある。
何も色刷りがたった四頁ほど載ったからといって、とくに権力当局から特別扱いを受けたというのは、滑稽な認識の誤りだ。こんな牽強付会説を以って、人を攻撃する石子の神経を疑う。
太平洋戦争開始いらい、次第に敗色濃厚、権力の締め付けが強くなるにつれて、日本の全マスコミが聖戦賛美、鬼畜米英撃滅一色に、マスコミが権力により、塗りつぶされてしまったのだ。
その意味で一万部そこそこの「漫画」の罪を暴きたてても仕方があるまい。朝日新聞から、中央公論からキング、婦人クラブまで、すべて情報局の管理下にあった。
各雑誌の編集長は毎月情報局に集められ、雑誌の内容を指示されていたのである。
だから「マンガ芸術論」で、石子が言うように、雑誌「漫画」で
「“聖戦完遂、鬼畜米英打ちてしやまん”を大声でわめき散らしていたのである。だがしかしそれはおよそ表現創造から遠いファッシズムのポスターチラシの画に過ぎなかった。そこにこんにちの日本の漫画界に大御所近藤日出三、横山隆一をはじめとする名前を見出すとき、ぼくらはマンガと大衆とのつながりに深い反省と考察を加え、鋭い批判の目を注がねばなるまい」
という時、いかに現実と離れた、ためにする文章か、明白であり、滑稽である。
私は近藤が憲兵に頭を蹴飛ばされ、逮捕寸前までいかされた事実、翼賛会の文化部長就任を断った事実、翼賛会、内閣情報局からその傘下に「漫画」をおいて編集しろといわれ、命がけで断固断った事実、敗戦を見極めると信州の山にこもった事実、こういう行動は大政翼賛会、内閣情報局が言論の抑圧していた当時、誰にでもできる行動ではなかった。私は、むしろ近藤の反権力性を高く評価すべきではないか、と思う。
その反権力性がナンセンス漫画という世界を、強力なものにしたと信ずる。やはり近藤に無政府主義的な考え方、それと同時に横山の反権力性を強く買いたい。
成人向け作品、長短三七編
かくして昭和三九年、わが手塚治虫も漫画集団に仲間入りをするわけだが、手塚が集団の先輩を尊敬したのは、自分も戦争中に育ち、戦争の惨禍を経験して来た心情、それに抵抗してきた先輩に共鳴したのだ。
さてここから、手塚の大人漫画の世界に戻らなければならない。私は昭和三六年ごろからこの人に、成人向けの漫画を描いてもらうべく接触をはじめた。当時手塚に原稿を書いて貰うことは、子供漫画を描く隙間を狙っての仕事で、いかに大変だったか。子供漫画の世界の編集者に歓迎されるわけはない、自分たちの時間をとる時間泥棒にように思われたであろう。私は遠山君という頭のいい、辛抱強い編集者に、手塚を追わせた。
そして、はじめて書いて貰ったのが「午後一時の階段」であった。交渉を始めてから二年近くたった昭和三八年八月の別冊漫画サンデーであった。この第一回作品はSFの真髄をついたSFナンセンス漫画で、いかにも手塚の成人漫画らしい作品であった。
この作品を端緒にそれから手塚は、漫画サンデーの常連執筆家になってくれた。成人漫画の多くの名作を残してくれた。
漫画サンデー掲載の手塚作品は、満八年間に、三七本の長短編を書いて貰っている。次号からこれらの作品を分析してゆくのであるが、これらの作品のうち、手塚作品として重い価値のあるのは、昭和四三年の長編「人間ども集まれ」「ふーすけ」シリーズ、長編「一輝まんだら」(未完)だと思っている。
そしてナンセンス漫画的観点からすれば「フースケ」シリーズは最高の傑作と思っている。
ナンセンス漫画史上傑作はたくさんあるが、横山の「百馬鹿」杉浦、岡部の合作「淑女の見本」加藤芳郎の「ベンベン物語」と並ぶ金字塔的作品だと思われるが、なんで文春漫画賞に見逃されたか不思議なくらいである。いずれ次号から、三七作品をすべて、もっと分析的に考察をしたいと思っている。
(つづく)