“12月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1659=万治2年 隅田川の<一番橋>として両国橋が完成した。
この2年前の「明暦大火」のあと幕府は都市計画の一環として本所・深川方面の開拓事業に乗り出した。いま風に言えば<江戸改造計画・火災に強い町づくり>である。道路の幅を広げ、火除け地を設け、武家屋敷や寺社のいくつかを周辺に移転させることを計画した。隅田川には現在30の橋があるが「両国川」とも呼ばれた当時は江戸城の<防衛線>としての役目もあったから橋はまったくなかった。だがいちいち「渡し」に乗るのでは不便極まりないということで交通の便を優先して2年がかりで架橋された。
橋の西手前の江戸城寄りは武蔵国、東側の本所からは下総国だったから<二国を結ぶ>として両国橋と名付けられた。やがて花火船、涼み船、月見船などでの「船遊び」が盛んになり橋の両側には見世物小屋や茶屋ができて繁盛した。その様子は『江戸名所花暦』などの錦絵などに描かれ、芝居にも登場する。なかでも野村胡堂の『銭形平次捕物控』では平次親分の活躍の場だった。
銭形の平次が、子分のガラッ八を伴れて両国橋にかかったのは亥刻(よつ=午後10時)過ぎ。薄寒いので、九月十三夜の月が中天に懸ると、橋の上に居た月見の客も大方帰って、浜町河岸までは目を遮る物もなく、唯もうコバルト色の灰を撒いたような美しい夜です。(『平次女難』)
<コバルト色の灰を撒いたような美しい夜>なんて胡堂先生なかなかやりますねえ。時代小説であることを忘れてしまいそう。『忠臣蔵』の四十七士が吉良上野介の<首級>を槍先にぶら下げて渡った橋と勘違いされるがそれは間違いで永代橋が正しい。
<首>といえば落語の『たがや』。こちらは両国橋のうえで起きたという噺。たがやは桶の修理をする職人でその「たが」が偶然はじけて通りかかった武士の笠に当たってしまった。「無礼者」と刀を抜いて斬りかかる武士、たがやはその刀を必死で奪い、反対に武士を斬り払うとその首が・・・
固唾をのんで見守っていた見物人、高く舞い上がった武士の首を見上げながら「あがった、あがった、あがった、あがったー、たがやー!」
*1924=大正13年 東京・丸の内で「婦人参政権獲得期成同盟」の発会式が行われた。
直前の9日に「号外」として発表された普通選挙法案では「帝国臣民たる男子にして年齢25年以上の者は、選挙権及び被選挙権を有す」とされたが女子(女性)については認めていない。これに対して東京婦人会などが中心になって立ちあがった。
会員数は約200人で理事には女性の集会結社の自由を禁止する治安警察法の改正運動などを手がけていた市川房枝や飛田遊郭新設反対など廃娼運動で知られる久布白落実(くぶしろ・おちみ)、与謝野鉄幹・晶子夫妻と文化学院を創立した河崎なつらが名を連ね、津田塾大学の前身の女子英学塾を開いた津田梅子や女性解放運動家の山川菊枝なども参加した。
*1910=明治43年 鈴木梅太郎が米糠の成分から「オリザニン」(=ビタミンB1)を発見した。
鈴木は帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)を首席で卒業した。帝国大学の卒業式では全卒業生を代表して答辞を朗読しその後も大学に残って研究を続けた。打ち込んだのは脚気医学でこの年6月には東京化学会で「白米の食品としての価値並びに動物の脚気様疾病に関する報告」を発表した。つまり白米だけを与えて飼育したニワトリとハトは脚気のような症状で死んだが、糠と麦と玄米を飼料にした一群には異常は見られなかった。だから糠と麦と玄米には脚気を予防して回復させる成分が含まれているという内容だった。
現在の小学生なら「脚気はビタミンB1欠乏症だから当たり前だよ」と答えるかもしれない。しかし当時はまだ「ビタミン」という概念がなく学会でも賛否が分かれていた。鈴木はその後の研究成果をこの日の東京化学会で「糠中の一有効成分について」を発表し、それを「オリザニン」と名付けた。当時、脚気は一般人にとっては難病で毎年数万人が命を落としていた。ところが安静にして規則正しい食事をすれば回復するケースが多いという側面もあったから学界の反応は冷たかった。鈴木が糠の主成分とした「オリザニン」も純粋な結晶にするのは至難で濃縮しても樹脂のような塊り=粗製オリザニンしかできなかったからでもある。
脚光を浴びるのは外国での旺盛なビタミン研究によりさまざまな学説が伝わってきたからでもある。鈴木は理化学研究所の設立に中枢として参画し「理研ビタミン」(=ビタミンA)など多くの発明をおこない1943=昭和18年には文化勲章を受章した。論文発表のこの日が2000=平成12年から「ビタミンの日」に。
ひとつだけ小学生が「スゲェ」と言いそうなエピソードを紹介する。14歳の鈴木少年、現在の静岡県牧之原市の実家から東京での勉学を志し、単身徒歩で上京した。新幹線なら掛川が最寄駅だから230キロある。勉学への思いが強かった以上に健脚だったことは確かだ。