“12月15日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1877年 発明王トーマス・エジソンが蓄音機の特許を申請した。
エジソンは試しに自分の声と歌を録音してみた。それを聞いた周囲の皆は「あなたの声です」と感心したがエジソン自身は何回やっても<別人の声>にしか聞こえなかったので「あんなに驚いたことはなかったよ。皆は私の声が再現されたのでびっくりしたが私は初めて自分の声を聞くことになって胆をつぶした」と語った。このときに歌ったのは『メリーさんの羊(Mary Had a Little Lamb)』だそうな。
評判を聞いてエジソン研究所に牧師がやってきた。彼は「機械が人間の言葉をしゃべるわけがない。どうせそばに腹話術師でもいるのだろう。いかさまを暴いてやろうじゃないか」と蓄音機に向かって聖書に出てくる難しい人名を立て続けに早口でしゃべった。ところが再現してみると少しの間違いもなく完璧に聞えるではないか。牧師は仰天すると同時にすっかり感心してエジソンに向かい「これは神様以上です。どうかあなたに神の祝福とご加護がありますように」と言って帰って行った。
*1963=昭和38年 赤坂のナイトクラブで暴力団員に腹部を刺された力道山が死去した。
行きつけだった「ラテン・クオーター」での些細なけんかから力道山がナイフで刺されたのは8日午後10時半ごろのことだった。出血もひどくはなかったため山王病院で応急手当てを受けて帰宅したが翌日になって症状が悪化、ふたたび山王病院で開腹手術を受けた。いったんは成功したと思われたが8日後に化膿性腹膜炎で帰らぬ人に、39歳だった。
元大相撲力士で関脇に昇進したが突然引退、1951=昭和26年にプロレスに転身した。ホノルルでのちにレフェリーとして活躍する日系人レスラーの沖識名について猛特訓した。1953=昭和28年に帰国すると日本プロレス協会を設立した。翌年2月からは全国を転戦し14連勝した初興行は大成功、その年始まったテレビでも中継されたことで人気を呼び<決め技>の「空手チョップ」とともに一躍、時代のヒーローになった。
敗戦に打ちひしがれた国民にとって力道山は<胸のすく>存在だった。何よりも新奇のプロスポーツ、プロレスを興奮しながら観戦する楽しみを与えてくれた。まだまだ家庭にはテレビのない時代、対戦中継がある日は街頭の白黒テレビに早くから黒山の人だかりができた。
プロレスでのタイトルは日本ヘビー級王座、世界タッグ王座、WWA世界ヘビー級王座、インターナショナル・ヘビー級王座などがあり「日本プロレスの父」と呼ばれる。
*1965=昭和42年 米の2人乗り有人衛星ジェミニ6号と7号が史上初のランデブーに成功した。
マーキュリー計画に基づく宇宙計画の一環で、まず4日に7号を打ち上げたが6号はロケットの故障で打ち上げが中止になった。世界中がやきもきしていたがこの日、ようやく打ち上げに成功して周回軌道に乗ると発射約6時間後にグアム島上空でお互いが接近し、ランデブーに成功した。この当時、いまなら当たり前のドッキングなどはまだまだ夢のまた夢だった。
*828=天長5年 空海が京都に庶民教育を目的にした綜芸(しゅげい)種智院を設置した。
綜芸とは各種の学芸を綜合=総合するという意味で藤原三守から譲り受けた左京九条の邸宅に開いた私立学校だった。空海は身分貧富に関係なく俗人も僧侶も儒教、仏教、道教などあらゆる思想や学芸を総合的に学ぶことをめざした。学生や教員には<完全給食制>で勉学に専念できる環境だった。835=承和2年に空海が死んでからは中心となる教育者がいなくなったことや財源不足などもあってやがて廃絶した。
*1909=明治42年 竹久夢二が最初の画集『夢二画集―春の巻』を発刊、ベストセラーになった。
この年、25歳。一児をもうけた最初の妻・たまきといったん協議離婚した。<いったん>と書いたのは翌年再び同棲しその後、次男ができるから。当時は読売新聞社で時事スケッチを担当していた。
洛陽堂から刊行された『春の巻』は表紙に夢二のサインをあしらい、見開きには叱られてとぼとぼ歩く和服の女性のスケッチが描かれている。たまきをモデルにした眼が大きく憂いに満ちた「夢二式美人」が登場したのはこの画集から。続いて『花の巻』を出し、ようやく<注文が来る画家>になった夢二は独立し絵葉書や挿絵、装丁などを次々に発表、次第に売れっ子になっていく。